二泊三日の東京出張が終わり、雪の庄内に帰る。飛行場に止めた車の雪が心配だ。
今回は中期経営計画を作成する合宿セミナーに参加していた。
合宿、と聞くと身構えてしまう。
山に籠もって数字と向き合い、頭から煙を出すような時間を想像していた。
けれど実際は、ずいぶんと穏やかな時間だった。
九割は個人ワークで、必要なときに専門家と壁打ちをする。
急かされることもなく、評価されることもない。
考えるための時間が、きちんと用意されていた。
かなり贅沢だし、驚くほど分かりやすい。
頭の中に散らばっていたものが、少しずつ整理され、
見えにくかった未来に輪郭が生まれてくる。
これからの会社、これからの仕事は、
きっとこういう形に近づいていくのだろう。
「仕事だからしょうがない」と割り切って進むのではなく、
立ち止まって考えること自体が、ちゃんと仕事になる世界。
そんな一日の終わり、上京している長女と飲みに行った。
話の中心は仕事のこと。
近況や悩みを聞きながら、
いつの間にか大人同士の会話になっていることに気づく。
ところが不思議なもので、
なぜか予定もないのに、
自分が着るウエディングドレスは何色がいいか、という話題で盛り上がった。
元ドレスコーディネーターの彼女は、
やはりドレスの話になると少し表情が変わる。
「こういうのはどうだろう」
私のチョイスに、
「そのブランド、人気だよ〜」と返ってきた。
少しだけ誇らしい。
何かが決まったわけではない。
未来が動いたわけでもない。
けれど、仕事のことを考える時間も、
予定のないドレスの話も、
どちらも「これから」を静かに見えやすくしてくれた気がする。
未来の話ができるというのは楽しいものだ。
東京出張1日目が終わった。
予定が終了して、一目散に向かったのは、ホテル。そしてそのあとはもちろん、どこにも行かずにホテル。
せっかく東京に来たんだから、飲みにでも行けばいいのにと自分でも思うのだけれど、いつも全くそういう気分にならない。
多くの人は「もったいない」と言う。
たしかにそうなのかもしれないが、私はコンビニでお茶を買って、静かな部屋に戻る瞬間に、いちばんほっとしてしまう。
部屋に入り、夜景でも眺めようかとカーテンを開けると、隣のビルの壁だった。
思わず笑ってしまう。東京らしいと言えば東京らしい。絶景ではないが、がっかりするほどでもない。ただ、無機質な壁がこちらを静かに受け止めている。
若い頃は、知らない街に来ると意味もなく歩いた。外に出て、何かを取り込まないと損をする気がしていた。今は逆だ。一日分の言葉や判断で、身体も頭も満ちている。これ以上入れなくてもいい、とどこかで思っている。
ただ明日は、上京している長女と飲みに行く約束をしている。それを思うと、この静かな夜も、なんだかもう少しだけ賑やかだ。
誰の声も物音もしない、エアコンの音だけが響く部屋の中、家では味わえない、一人の静かな時間が、とっても心地いい。
Netflixで、トム・ハンクス主演の『BIG』を、高校一年生ぶりに観た。
気づけば、三十年ぶりくらいになる。
当時は、「その頃脚光を浴びていたトム・ハンクスが出ている、昔の作品にBIGっていうのがあるらしい」という、そんな軽い情報だけで観た記憶がある。
とても印象に残る映画ではあったが、感動したという記憶はない。
この作品は、13歳の少年が、ある出来事をきっかけに、半年間だけ30歳の身体になってしまうファンタジーだ。
高校生だった私はもちろん子どもで、大人の世界への憧れや不安、そういった青さのただ中にいた。だからきっと私は、トム・ハンクス目線でこの映画を観ていたのだと思う。
それが三十年経って観ると、まず感じたのは、トム・ハンクスの演技の凄さだった。
まんま、13歳の少年が滲み出ている。声、動き、表情、間の取り方。そのすべてが「中身が少年」のままなのだ。
けれど今回、私がいちばん感情移入したのは、トムではなく、ヒロインだった。
トムはおもちゃ会社に就職し、そこで大人の女性と出会い、恋仲になる。
都会の大人社会で少し疲れた彼女が、トムと過ごすうちに、生きる喜びのようなものを取り戻していく。
ここから先はネタバレになる。
最後、すべての秘密が明かされ、彼女の目の前で、トムは13歳の少年に戻っていく。
恥ずかしそうに、気まずそうに、少し背中を丸めながら。
あの場面で彼女が向ける眼差しは、もう恋人を見るそれではなく、どこか母性に近いものだった。
そして別れのキスは、唇ではなく、おでこに。
切り替わる瞬間が、
この映画をコメディから“人生の話”に変えている。
今はズシンと胸を打たれるこのシーンを若い頃の私はきっと通り過ぎていた。
この映画の素晴らしさは、子供にも大人にも刺さる何かがあることだろう。
高一の息子に勧めて感想を聴きたいと思った。
久々の二連休初日。
それなのに、朝からなんだかそわそわしている。
仕事をしていないと落ち着かない。
もう体が、そういうリズムになってしまったらしい。
午前中は、凍えるコートでテニス観戦。
午後は床屋へ。
先月来たとき、「新年はパーマでイメチェンしましょう。テーマは“大人っぽく”で」と言われていた。
気づけば髪はくるっとしていて、色も少し明るい。
鏡を見ると、自分なのに少しだけ他人みたいで、少し照れくさい。
外側は変わったけれど、中身はたぶん変わっていない。
心の自分は、たぶんずっと16歳くらいのままだ。
でも現実では、求められるのは「大人の自分」だ。
落ち着いていて、ちゃんとしていて、頼られる側の自分。
その役をやりながら、内側では相変わらずの自分が動いている。
その二つの間で、毎日をやっている。
本当の大人のかっこよさって、何だろう。
弱さを隠す青さも悪くはないんだけれど、大人の悪あがきは見苦しい。やっぱり弱さを認めて笑い飛ばす潔さ。
たぶん私は、まだそこに向かっている途中だ。
だから今年は、「本当の大人」について考える一年になるのかもしれない。
求められる自分と、本当の自分。
その間で揺れながら、それでもごまかさずに立てる人。
そんな大人に、少しずつ近づいていけたらいいなと。
きょうで、一大プロジェクトの工事が終わった。
詳細は、これから小出しにしていこうと思う。
この一年でいちばん寒い時期。
火の気のない工場での作業は、正直こたえただろうと思う。
吐く息は白く、金属は触るだけで体温を奪っていく。
指先の感覚が薄れていく中で、ボルトを締め、配線を通し、水平を取り続ける。
それはもう「仕事」という言葉では足りない、身体そのものの営みだ。
私はその昔、電気工事士として現場に出ていた。
だからなのか、今回工事に来てくれている電気屋さんのことが、どうしても気になってしまう。
盤の前に立つ姿勢。
腰袋の重さ。
工具を置く位置。
ブレーカーを落とす前の、ほんの一瞬の間。
言葉の端々に出てくる専門用語が、いちいち懐かしい。
そんな中に、ひとり、年配の職人さんの姿があった。
失礼とは思いながら、年齢を聞くと「七十六です」と静かに言う。
七十六。
正直、まったくそうは見えない。
背筋が伸びていて、動きに無駄がなく、若い職人たちと変わらない稼ぎっぷりだ。
脚立を押さえ、ケーブルをさばき、必要なときだけ口を開く。
「次は新潟の現場も頼みますね」
そう声をかけられても、彼は小さくうなずくだけ。
寡黙な職人。
その背中を見ながら、私は思った。
こういう人たちが、今の日本を支えているんだよな、と。
この人たちは、明日にはまたバラバラに、どこかの現場へ散っていく。
そう思ったとき、工事が終わった工場に、ふっと寂しさが漂った。
当社一大プロジェクト工事2日目、
関東と名古屋から来てくださった職人さんたちを迎えたのは、吹雪だった。
庄内式の手荒い歓迎である。
「それほど酷くならなくてよかったです」
そう言うと、職人さんが少し真顔で聞き返した。
「……これより酷い時、あるんですか?」
庄内の冬は「よくこんな所に住んでるね」とまで言わしめる凄まじさがある。
現場が少し落ち着いたところで、一服。
ストーブに寸胴をかけ、湯を沸かす。
そこに缶コーヒーを沈める。
横でクーラーボックスを開けると、湯気の立つ「あじまん」。
山形のソウルフード、大判焼きだ。
出来たてを買ってきて、冷めないように詰めてきた。
蓋を開けた瞬間、白い湯気と甘い匂いが立ち上る。
「おお……」
あちこちから小さなどよめきが起きる。
椅子はないので、ビールケースを並べて即席の腰掛け。
ストーブを囲んで、車座になる。
電気屋さん、機械屋さん、クレーン屋さん。
分野の違うプロフェッショナルが十数人。
手にしているのは、あじまんと、寸胴で温めた缶コーヒー。
誰かが言った。
「なんか、田舎の集会場みたいですね」
たしかにそうだと思った。
吹雪の外。
鉄の音の現場。
その真ん中に、ストーブと湯気と甘い匂い。
缶コーヒーは、ただの缶コーヒーじゃなかった。
寸胴で温めたそれは、指先から体の芯まで、まっすぐ効いてくる。
「あー……生き返る」
その一言で、今日ここに集まった理由の半分くらいは、もう十分だった気がする。
吹雪に当たり、あじまんをかじり、同じストーブを囲む。
工事二日目。
一体感がすごい。
冬の庄内は大抵、雨か雪か曇りの予報だ。
晴れマークを見ることは、ほとんどない。
「この時期、庄内の人はみんな鬱になる」
なんてブラックジョークが、わりと本気混じりで飛び交う。
それくらい、空は低く、陽は出ない。
最近、鬱っぽさとビタミンD不足には関係があるらしいと知った。
日光を浴びないと、身体の中でつくられるはずのものが、つくられない。
気分の問題だと思っていたものが、実は光の問題だったりもする。
だから今日は、晴れの日曜日。
寒鱈祭りが開かれていて、町はきっと賑わっている。
けれど我々は、人混みを避けて祭りには行かず、珈琲屋に入った。
窓際の席で、ただ陽を浴びていた。
ガラス越しの冬の光は弱い。
それでも、ちゃんと届く。
今日は、意識的に光をとりにいく日だと思った。
そのあと、生活が始まった。
妻の買い物の助手。
日用品の大量買い出し。
玄米三十キロを精米。
そして洗車が二台。
書き並べると、実に地味だ。
けれどこの土地では、こういう用事こそが「晴れの日の仕事」になる。
極め付けは、人生で初めて宝くじを買ったことだ。
妻が急に「買おう」と言った。
妻も初めてだという。
なんで、と聞くと、
「今日は当たりそうだから」
と、根拠のないことを、やけに静かに言った。
何に使うか、という話はしなかった。
家に帰ると、妻はその宝くじを神棚に上げた。
宝くじを買った、という楽しみを、存分に味わっているのだろう。
きっと、
陽の昇らない庄内の冬を楽しむための、
小さな仕掛けなのだと思う。
なんでもない日曜日
晴れて、動いて、珈琲を飲んで、宝くじを買った。
冬の庄内では、それだけで、いい一日になる。
NHKラジオで「たそがれ清兵衛」の朗読を聴いている。
藤沢周平という、ここ庄内が生んだ作家の物語であり、
この庄内が映画の舞台にもなった作品だ。
原作に触れるのは初めてだったが、聴き進めると
清兵衛の顔が、思っていたのと違っていた。
冴えない三十がらみの男で、
私の頭に浮かんだのは、映画で主演を務めた真田広之ではなく、サザエさんのアナゴさんだった。
あの映画で私が感動したのは、
清兵衛の「本当に大切なモノを、大切にする生き方」に自分の生き方を問われた気がしたからだ。
清兵衛は、評価を取りに行かない。
出世も、体面も、武士らしさすら、後回しにする。
彼が大切にしていたのは、
地位でも、剣でもなく、
「一番近くにいる人たち」だった。
「置かれた場所で咲きなさい」という言葉がある。
この作品に出会ってから、
「咲く」という言葉の意味が、少し変わった。
咲くとは、
目立つことでも、
評価されることでも、
上に行くことでもない。
咲くとは、
置かれた場所から逃げずに、
そこで大切にすると決めたものを、
ちゃんと大切にし続けることだ。
朗読では、刺客としてやっと清兵衛が登場した所だ、
習字を習いはじめて一年半。
やっとのことで、初段に合格した。
初段になると、小学生に教えることができるらしい。
そう聞くと立派に思えるけれど、私の実感は少し違っていた。
スタートというより、「入口に立った」という感覚だった。
やればやるほど、難しくなる。
書道とは、そういうものだった。
始めた頃は、うまく書けないことしか見えていなかった。
形が取れない。止まらない。流れない。
それが最近は、悪いところも、良いところも、少しずつ見えるようになってきた。
線の入り。
止めの甘さ。
重心のズレ。
呼吸の乱れ。
そして同時に、
「あ、今の一本は悪くない」
そう思える瞬間も、ごくたまに現れるようになっていた。
その裏には、いつも先生の言葉があった。
「そこ、急がない」
「いまの線、力が前に出すぎ」
筆を持つと、頭の中で先生の声がループする。
できない自分に何度も向き合いながら、
それでも毎回、線の置き方を示してくれた。
直すべきところも、良くなったところも、きちんと言葉にしてくれた。
根気よく指導してくれた先生には、感謝しかない。
書道には、はっきりしたルールがあった。
手本どおりに書くこと。
自分の解釈はいらない。
徹底的に真似る。
考えなくていい。表現しなくていい。
ただ目の前の一字と向き合う。
無心になれる時間だった。
けれど、漢字は不思議な存在でもあった。
音があり、意味があり、浮かぶ情景がある。
しかも一字で完結せず、隣の字と支え合って世界をつくる。
私はいつからか、良い字はパズルのピースに似ていると思うようになっていた。
凸があるから凹が活きる。
強い線があるから、弱い線が映える。
動きがあるから、静けさが立ち上がる。
ときどき思う。
手本の文字を書いた人と、語り合ってみたいと。
この一字に、どんな気持ちを込めたのか。
パーソナルトレーニング6ヶ月コースが、いよいよ最終月に入った。
体重は約3kg減。
ウエストは4cm減。
数字だけを見れば、劇的な変化ではないかもしれない。
でも私にとっては、十分に現実的で、十分に嬉しい変化だ。
スーツのウエストが少し楽で、
階段を上ったときの息が少し軽い。
この「少し」が、日常の中では案外大きい。
この6ヶ月で手に入れた一番の成果は、
実は体重でも、筋肉でもない。
何を食べてはいけないかを知った。
何を食べると調子がいいか。
何を食べると眠くなるか。
何を食べると、翌朝むくむか。
何を食べると、体が重くなるか。
正解のメニューを覚えたというより、
「自分に合わないもの」が、体で分かるようになった。
これはたぶん、一生使える感覚だ。
正直、このコースが終わったらどうなるんだろう、という不安はある。
トレーナーがいなくなり、
予約がなくなり、
「行かなきゃ」が消えたとき。
人は簡単に元に戻る。
それを私は、仕事でも、暮らしでも、何度も見てきた。
そんなことを考えていたとき、ふと思い出した言葉がある。
「入るを量りて、出ずるを制す」
細井平洲の言葉だ。
最初に、場を量る。
状況を量る。
自分の立ち位置を量る。
そのうえで、
どこに着地するかを決める。
どう終えるかを定める。
経営でも、会でも、文章でも、
入り方が決まれば、出口は半分決まる。
この6ヶ月を振り返ってみると、
私はずっと「入るを量る」時間を過ごしていたのかもしれない。
自分の体は、何に反応するのか。
何を入れると、どうなるのか。
どんな生活リズムなら、続くのか。
無理をしたかと言えば、していない。
気合で乗り切ったかと言えば、たぶん違う。
ただ、淡々と量っていた。
どうやら私は、
一気に変わるのは得意ではないけれど、
コツコツ続けることは、案外できるらしい。
派手な目標は立てない。
気合も長くは続かない。
その代わり、決めたことを、静かにやる。
振り返ると、
続いているものがあり、
そばに残っているものがあり、
体もまた、静かに変わっていた。
正直、筋肉をこのまま維持するのは難しいと思う。
多少は落ちるし、サボる日も出てくる。
でも、
全部失う感じはしていない。
なぜなら私はもう、
戻り方を知っていて、
太り方も知ってしまっていて、
そして何より、
何を食べてはいけないかを知っているからだ。
パーソナルトレーニングが終わるというより、
管理される期間が終わって、
自分で選ぶ期間に入る。
6ヶ月かけて「入り」を量った。
これからは、自分で「出口」をつくっていく。
どんな生き方をしたいのか。
そして、それを支える身体はどうありたいのか。
その「出口」から逆算して、いまの入りを量る。
これは、身体の経営学なのかもしれない。
事務所でコピー機が印刷を始めると、いつも少しだけ空気が変わる。ツンとした、金属のようなにおい。ある朝ふと思った。あ、これ……うちの現場で使っているオゾン脱臭機と同じにおいだ。
私の仕事は、においと向き合う場面が多い。家財整理の現場。長く閉ざされていた家。水害のあとの部屋。そういう場所で、私たちはオゾン脱臭機を回す。しばらくすると、あの独特のにおいが空間に立ち始める。「効いてきたな」という合図のようなにおい。
消臭作業をしていると、オゾンは時を加速させる魔法のようだと感じる。それは、長い時間をかけて自然界がやっていることを、ほんの数時間に縮めてしまう仕事だからだ。風が通い、光が入り、微生物が働き、季節をまたいで薄れていくはずのにおい。それを、オゾンは一気に引き寄せる。
この仕事には、はっきりとした季節がある。冬はほとんど出番がない。消臭作業のオフシーズン。本番は5月から10月。湿気が出て、温度が上がり、家も空気もにおいを溜め込みはじめる頃。私たちの出番も、そこから一気に増えていく。
現場で脱臭機を回していると、においが消えていくのと同時に、その場所の「時間」が進んでいく感じがする。昨日まで確かにあった痕跡が、今日にはもう輪郭を失っている。私はときどき、片づけをしているのか、時間を動かしているのか、分からなくなる。
調べてみると、コピー機も印刷の過程で微量のオゾンを発生させているらしい。なるほど、と思った。事務所で嗅いだあのにおいは、現場で何度も嗅いできたにおいだった。
コピー機と脱臭機。
役目は違うのに、
あのにおいだけは、どちらにも立つ。
事務所でそれを嗅ぐと、
私は少しだけ、現場の時間を思い出す。
においが変わるとき、
何かが終わっている。
そしてたぶん、何かが始まっている。
新しいことを始めるとき、
それはだいたい「準備万端」の瞬間ではない。
まだ早い気もするし、
本当に必要なのかも分からない。
今のままでも、たぶん回る。
そんな地点で、えいっと踏み出す。
だから「新しい」が始まるときには、
いつも思い切りがいる。
ただ最近は、そのきっかけのほとんどが
「必要に迫られて」だ。
環境が変わり、
人が育ち、
やり方に歪みが出始める。
思えば今は、
父の時代から、私の時代に変わる時なのだ。
やり方も、判断も、背負い方も。
受け継いできたものを胸に収め、
今度は自分の足で立つ段階。
準備ができたから立つのではなく、
立たされた場所で、覚えていく。
そんな感覚に近い。
そんなことを考えていると、
家に帰って、息子が言う。
学校の音楽クラブで
何か演奏するんだとか。
歌か、ピアノか、ギターか。
ベースでもいいらしい。
じゃあベースやったら。
息子は笑顔で頷いた。
私から息子への時代は、
もう少し先のようだ。
コーヒーは苦手でも、コーヒーの香りは好きだという人は多い。
飲むとなると身構えてしまうのに、香りだけは不思議と受け入れられる。そこには味覚よりも先に、記憶や感情に触れる何かがある。
ジャコウネコのコーヒーの話を思い出す。
もともとは、野生のジャコウネコが完熟した実だけを選び、偶然生まれた希少なものだった。それが「価値がある」と分かった瞬間、効率化され、量産され、物語だけが残った。店頭に並ぶそれらは高価だが、どこかブロイラー的で、香りが薄い。
効率が進んだとき、真っ先に失われるのは、たいてい“香り”なのだと思う。
これは、コーヒーの話だけではない。
ブランドという色眼鏡に、私たちはいつの間にか魔法をかけられている。値段や名前が、安心や正解を保証してくれる。自分の感覚で確かめる前に、「これは良いものだ」と思わせてくれる。
けれど、本当に良いものは、そんな魔法がなくても、静かに伝わってくる。派手ではないし、説明もいらない。ただ、「これは好きだ」と自分の中で分かる。
しかし、私は実は、ブランドに弱い。
それでも、毎朝ハンドドリップで淹れるコーヒーは、スーパーで買った安い豆だ。
けれど、これがとても美味い。
今年は、
「ブランドマインドセットを捨てる」
というのを、自分のテーマにしてみようと思っている。
正月ということもあって、ネットフリックス三昧。友人に勧められた『葬送のフリーレン』を観始めた。
剣と魔法の世界。
勇者が魔王を倒し、世界は救われ、物語は終わる。
本来なら、そこで拍手をして幕が下りるはずだ。
けれど、この物語はそこから始まる。
エルフである主人公のフリーレンにとって、人の一生はあまりに短い。
十年一緒に旅をした仲間との時間も、彼女にとってはちょっとした出来事にすぎない。
だから当初、別れの重みも、後悔の輪郭も、はっきりとは掴めなかった。
一方で、人は変わる。
歳を重ね、立場が変わり、価値観が更新されていく。
変化の速さの中で、置いていかれたり、追いつこうと焦ったりしながら生きている。
フリーレンは、その速さに合わせようとしない。
代わりに、ゆっくりと歩き続ける。
そして言う。「遅すぎることはない」と。
この言葉が、不思議と胸に残った。
僕らの世代は、「何者かになりなさい」と強く言われて育ってきた。
結果を出すこと、役に立つこと、評価されること。
それが正解で、それ以外は遠回りのように感じていた。
けれど振り返ってみると、
与えられた評価や肩書きは、いつの間にか色褪せている。
手に入れたはずの「答え」は、次の瞬間には別の問いに上書きされていく。
フリーレンが教えてくれるのは、まったく別の価値観だ。
本当に欲しいモノとは、誰かから与えられるものではない。
それは、探し求めている時間そのものなのだと。
寄り道をし、立ち止まり、無駄に見えることを繰り返す。
探している最中は、不安もあるし、確信もない。
けれど、その時間だけは、後から奪われることがない。
何者かになれなかったとしても、
探し続けた時間は、確かにそこに残る。
それは誰かと比べるものでも、評価されるものでもない。
ただ、自分の人生の厚みとして積み重なっていく。
平和な時代のヒーローは、剣を振るわない。
世界を救うよりも、記憶を拾い、感情を学び、時間を抱えて歩く。
その姿は、派手ではないけれど、とても誠実だ。
やっと本年の目標をビジュアル化しました。
これができないと、私の中では新しい年が始まりません。
毎年やっていることです。
新しい年に向かって言葉になりきらない目標を、
一度「見える形」にしてみる。
それは決意表明というより、
自分の現在地を確かめる作業に近い。
言葉だけで考えていると、
どうしてもぼんやりしてしまう。
分かっているつもりでも、
輪郭が定まらないまま日々が流れていく。
だから、ビジュアルにする。
書き出して、並べて、配置して、
少し距離を取って眺めてみる。
すると不思議なことに、
そこに「色」が現れてきます。
2026年の私のカラーは、
ゴールド × ブラックでした。
最初から決めていたわけではありません。
あとから、自然と浮かび上がってきた色。
ブラックは、削ぎ落とす色。
やらないことを決める覚悟。
余白をつくるための、静かな判断。
ゴールドは、積み重ねてきた時間や経験の色。
派手さではなく、
にじみ出る価値のようなものです。
これは、お片づけととてもよく似ています。
頭の中で管理しているつもりの空間も、
一度すべてを外に出すことで、
量も偏りも、色合いも、全部が見えてくる。
見えるから、選べる。
選べるから、整えられる。
そして、このビジュアルは
スマホの待ち受けにセットします。
一日に何度も目に入る場所。
自分を追い立てるためではなく、
「ああ、今年はこれだったな」と
静かに立ち返るための印です。
目標は、追いかけるものではなく、
暮らしの中に置いておくもの。
一緒に歩くもの。
これができて、ようやく、
私の中で新しい年が始まります。