急に、ぼたぼたと音を立てるような雪が降ってきました。
そんな夜に、上京している娘たちが帰省しました。
せっかくだから、みんなで焼肉に行こう、という流れになります。
向かったのは、日頃からごみ収集でお世話になっている、馴染みのお店。
家族は総勢八名。
いつもなら席が分かれてしまう人数ですが、この日は運よく、六名席に八名がけ。
決して広くはありません。むしろ、かなり近い距離感。
その近さが、不思議と場の熱を高めてくれました。
この日は、いつも運転手役の私も飲むことに。
代行は前日にきちんと予約済み。
覚悟を決めて、本腰を入れて食べ、そして飲みました。
成人した娘たちと盃を交わす時間は、やはり格別です。
時間は、知らないうちにきちんと仕事をしていたのだなと思います。
その夜の会話は、誰か一人が主役になるものではありませんでした。
仕事の話、性格の話、昔の思い出。
「そんなこと、あったっけ?」と笑いながら、記憶をつなぎ直す。
それぞれが語り、それぞれが聞く。
互いの成長や変化を、みんなで確かめ合うような時間でした。
家族というチームのチューニングを、自然にやっていたのだと思います。
それにしても、娘ざかりの娘たちを見ていると、頼もしいの一言です。
よく食べ、よく飲み、よく笑う。
もう守るだけの存在ではなく、並んで時間を重ねていける人になっていました。
外はすっかり雪景色。
焼肉の煙と笑い声に包まれた店内は、驚くほどあたたかい。
雪の夜の焼肉は、家族の今を確かめる、静かで賑やかな時間でした。
年末ですね。
車通りもどこか落ち着きがなく、お休みに入ったからでしょう飲食店には長蛇の列が多く見られました。
当社も今日で粗大ごみの受け入れは年内最終日。
ありがたいことに朝から慌ただしく、気づけば一日があっという間に過ぎていきます。年末らしい風景だな、と思いながら現場を見ていました。
そんな忙しさの合間に、今日ひとつ、面白い文章を読みました。
「頭上運搬」という身体技法についての話です。
車や台車が使えない地域で、人が荷物を頭の上に載せて運ぶ。
アフリカや中南米などでよく見られる光景で、テレビなどで一度は目にしたことがある人も多いのではないでしょうか。
調べてみると、この頭上運搬、日本では沖縄県でも行われていたことが分かっているそうです。
さらに興味深かったのは、その習得方法。
「誰かに教わった記憶はない」
「自分にもできると思ったら、できた」
経験者の多くが、そう語っているというのです。
考えてみれば、人が歩けるようになる瞬間も、これに近いのかもしれません。
何度も転びながら、ある瞬間ふっとバランスが取れて、「あ、いける」と身体が理解する。
理屈を学んだわけでも、十分な経験を積んだわけでもない。
けれど、「できると思えた」その瞬間に、世界が一段広がる。
知識や経験が大切なのは間違いありません。
でも、それ以前に
「できると思えるかどうか」
この感覚は、案外軽視できないものだな、と感じました。
さあ、新しい年はすぐそこです。
来年の目標も、完璧な準備が整っていなくてもいい。
まずは
「できると思ったら、できる」
その感覚を信じて、ひとつ試してみる。
年末の慌ただしさの中で、そんなことを考えた一日でした。
来年の目標を、ぼんやり考えている。
その前に、今年の振り返りをしようと、日記帳をペラペラとめくってみた。
九月あたりからは、ずっと山の中にいた気がする。
そして十二月は、たたみ込むような大山。
正直、登っている最中は何度も「これはきついな」と思った。
それでも不思議なもので、振り返ってみると、ちゃんと向こう側に立っている。
どんな山でも、人は案外、越えてしまうものだ。
今年は七つの目標を掲げた。
結果だけ見れば、達成はゼロ。
ただ、0.8くらいまでいったものが三つある。
とはいえ、0.8と1.0は雲泥の差だ。
「ほぼできた」と「やり切った」は、似ているようで全く違う。
だから来年は、やり残した目標はそのまま引き継ぎ、
考えが変わったものは素直に変更する。
PDCAを、緩やかに回していこうと思う。
無理に回転数を上げなくてもいい。
日記をめくり、立ち止まり、少し修正する。
それくらいの速度が、今の自分にはちょうどいい。
今年、習字で二段という目標を掲げた。
結局これは、来年にお預けだ。
これもまた、高い山だった。
勢いでは登れない山。
毎日の積み重ねと、静かな集中が必要な山だ。
登れなかった山があることは、悪くない。
その山の高さを、ちゃんと知れた一年だったのだから。
来年は、すべてを制覇しなくていい。
たった一つでも、「ここは登り切った」と言える山があれば、それで十分だ。
ゆっくりでいい。
自分の足で、確かに登っていこうと思う。
「空き家を活用して」
この言葉を、ここ数年で何度聞いただろう。
行政の資料、セミナー、補助金の案内。
まるで合言葉のように、このフレーズが繰り返される。
けれど私は、その言葉を聞くたびに、少し立ち止まってしまう。
全国の空き家は約900万戸。
空き家率は13.8%と、過去最高を更新している。
数字だけを見れば、
「家は余っている」「チャンスは山ほどある」
そう感じるのも無理はない。
しかし、法規制・老朽化・権利関係などをクリアし、
現実的に使える空き家となると、体感で1%にも満たない。
この数字と実感のズレこそが、
空き家問題のいちばん分かりにくく、厄介なところだと思っている。
価値があるなら、もう売れている
空き家には、空き家になった理由がある。
立地が悪い。
道路条件が合わない。
用途変更ができない。
相続が終わっていない。
ちゃんと調べれば、
「なぜ今まで使われてこなかったのか」は、だいたい見えてくる。
それでも残っているということは、
多くの人にとっては、価値が見えなかったということだ。
これは空き家に限った話ではない。
モノでも、仕事でも、事業でも同じだ。
本当に価値があるのなら、
もう誰かの手に渡っている。
リフォームすれば使える、の落とし穴
「直せば住めるんじゃないですか?」
現場では、よく聞く言葉だ。
たしかに、建物だけを見れば、そう思える家もある。
雨漏りはない。柱も立っている。外観も悪くない。
けれど問題は、建物そのものではない。
再建築不可。
市街化調整区域。
用途地域の制限。
消防法や旅館業法の壁。
こうした法の制約は、
どれだけお金をかけても、リフォームでは越えられない。
皮肉なことに、
本当に壊れている家より、
一見まともに見える家のほうが、
人を迷わせ、時間を奪うことも多い。
空き家は、誰にとっての価値か
誤解してほしくないのは、
空き家に価値がない、という話ではない。
才能のある人にとっては、大きなチャンスでもある。
法規制を読み解ける人。
行政との調整をいとわない人。
赤字の時間を耐えられる人。
使い道を一から描ける人。
そういう人にとっては、
誰も見向きもしなかった空き家が、
一気に意味を持つことがある。
ただしそれは、
誰にでもできる話ではない。
この構造は、空き家だけのものではない。
面倒だから避けられている仕事。
儲からなさそうで敬遠される分野。
分かりにくくて手を出されない領域。
そこには必ず、
「理由」がある。
だから残る。
だから安くなる。
だから、チャンスに見える。
価値とは、
楽に手に入る場所には、ほとんど残っていない。
ただし、ひとつだけ付け加えておきたいことがある。
不動産の評価は、
間取り、外観、築年数、立地、そして値段。
そうしたデータ化できるもので、ほぼ決まっている。
けれど、
窓から見える景色までは、ほとんど評価の対象になっていない。
遠くに見える山の稜線や、空の抜け。
そうしたものは、
査定書にも、価格表にも、ほぼ反映されない。
だからこそ、面白い。
数字だけを見れば、価値がないと判断される家の中に、
プライスレスな価値が、ひっそりと残っていることがある。
それは、現場に立たなければ分からない。
実際に窓を開け、風を感じ、景色を見ることで、初めて気づく。
罠か、チャンスか
空き家の現場には、
罠もある。
難しさもある。
けれど同時に、
言葉にならない感動に出会えることもある。
それは、
データからは見つからない。
机の上では、決して分からない。
だから空き家は、
一概に「ダメだ」とも言い切れない。
空き家は罠か、チャンスか。
その境界線は、
数字の外側に、
そっと残されているのかもしれない。
お正月に帰省する娘から、
「正月はみんなでゲームしたいね〜」
そんなLINEが届いた。
小林家のお正月といえば、やっぱりゲームだ。
毎年恒例はモノポリー(25年前に購入)。
子ども四人に私も加わっての真剣勝負で、それぞれに必勝パターンがあり、誰一人として簡単には勝たせてくれない。
人狼ゲームも外せない。
どこまでが演技で、どこからが本心なのか。
家族全員、無駄に演技派で、疑い合いながら大笑いする。
そして、ここ5年ほど不在だったスーパーファミコン。
妻の判断で手放されて以来、幻の存在になっていたが、今年は復活だ。
マリオカートに、ストリートファイター。
父としては、昔とった杵柄を、ここぞとばかりに披露する予定でいる。
せっかくなので、この正月は
各ゲームをポイント制・トーナメント戦にして、
「小林家ゲーム王決定戦」を開催しようと思っている。
上の二人はお酒が飲めるようになって、
気づけば私よりよっぽど飲めるようになった。
お酒を飲みながらのゲームも、きっと悪くない。
そしてもう一つ。
この正月にやろうと思っているのが、エンディングノートを書くこと。
最新版をいただいたので、
これまでの整理と、今の自分を知るために書いてみようと思っている。
にぎやかな時間と、静かな時間。
どちらも揃っているのが、今年のお正月だ。
今を知ろうとする、ということ
先日、子育て雑誌で「夫婦仲良くすること」について書かれた文章を読んだ。
相手を知ること。
喜ばせること。
心から応援すること。
どれも正しくて、やさしい言葉だ。
けれど、読み進めるうちに、
ふと別の関係が頭に浮かんだ。
それは、社員との関係だった。
夫婦と社員、意外と似ている
夫婦も、社員との関係も、
長い時間を共有し、簡単には切れない。
期待があり、感情が溜まり、
良かれと思った言葉が、裏目に出ることもある。
構造としては、驚くほど似ている。
仲良くしようとした瞬間に、少し歪む
夫婦仲良く。
職場の雰囲気を良く。
どちらも大切なことだけれど、
「仲良くしよう」と意識した瞬間に、
関係はどこか不自然になることがある。
仲良くすることは、目的ではなく結果だ。
社員に対しても同じだと思う。
分かり合おうと力を入れすぎると、
期待が生まれ、失望が生まれる。
応援とは、邪魔をしないこと
記事の中では「応援する」という言葉が何度も出てくる。
けれど応援とは、
必ずしも何かをしてあげることではない。
口を出さない。
先回りしない。
回収しすぎない。
余白を残すこと。
それも立派な応援だ。
職場は、成果の前に「回復の場」
家庭が安心の場であるように、
職場もまた、安心できる場所であってほしい。
安心とは、甘さではない。
失敗しても人格まで否定されないこと。
人は、安心できる場所でしか、
本当の意味で挑戦できない。
これは夫婦も、社員も同じだ。
巡り巡って返ってくる、を期待しない
「自分の行いは、巡り巡って自分に返ってくる」
きっと、それは本当だ。
ただ、社員との関係では、
返ってこないことのほうが多い。
返ってきたらラッキー。
返ってこなくても、それでいい。
そう思える距離感が、
長く続けるためには必要だと思う。
今を知ろうとする
この文章の中で、
一番ハッとした言葉がある。
「今を知ろうとする」
過去でもなく、
未来でもなく、
評価でもない。
いま、この人はどんな状態なのか。
余裕があるのか、ないのか。
力を出せる位置にいるのか。
分かろうとしなくていい。
解決しなくていい。
ただ、
今を知ろうとする。
それだけで、
関係は少し息がしやすくなる。
仲良くする、ではなく
無理に仲良くする必要はない。
夫婦も、社員も。
壊さない。
こじらせない。
感情でぶつけない。
まずは、今を知ろうとする。
それができた先に、
関係は自然と、続いていくのだと思う。
私には親友がいる。
大学時代からの友人だ。
たまたま同じ下宿で、二年間を一緒に過ごした。ただそれだけの出会いだった。
もう二十年以上、会っていない。
電話をすることもない。
それでも、たまにLINEが届く。
今回のメッセージは、
「今年いちばん聴いた曲」についてだった。
彼が挙げていたのは、**星野源**の
Eureka だという。
正直に言えば、その曲は知らなかった。
だから、素直に聴いてみた。
これまでの星野源の作品に感じていた
刺々しさや、皮肉さ、
どこか照れ隠しのような寂しさや虚しさとは、
少し違う印象だった。
強い感情が前に出てくるわけでもない。
分かりやすいメッセージがあるわけでもない。
何があるのか、すぐには掴めない。
ただ、とても洗練されていて、
静かで、大人っぽい曲だな、
そんな感想だけが残った。
それで、結論から言えば。
今の私には、刺さらなかった。
昔の星野源のほうがいい、とか、
今の星野源はどうだ、とか、
そういう話ではない。
ただ単純に、
「今の私」には刺さらなかった、
それだけのことだ。
でも、きっと。
彼には、私とは違う刺さり方があったのだろう。
同じ曲を聴いても、
同じ時代を生きていても、
心に引っかかる場所は、人それぞれ違う。
二十年以上会っていなくても、
近況を細かく語り合わなくても、
「今年いちばん聴いた曲」を
ふと思い出して、連絡をくれる関係。
それだけで、
ああ、いい友人を持っているな、
と思う。
そして、きっと、いつか。
私にも彼のように、
この曲が刺さる日が来るのだろう。
そのとき初めて、
私は彼の「今」を知ることになるのかもしれない。
私にとって、親友とはそんな存在だ。
ありがたい。
私には親友がいる。
大学時代からの友人だ。
たまたま同じ下宿で、二年間を一緒に過ごした。ただそれだけの出会いだった。
もう二十年以上、会っていない。
電話をすることもない。
それでも、たまにLINEが届く。
今回のメッセージは、
「今年いちばん聴いた曲」についてだった。
彼が挙げていたのは、**星野源**の
Eureka だという。
正直に言えば、その曲は知らなかった。
だから、素直に聴いてみた。
これまでの星野源の作品に感じていた
刺々しさや、皮肉さ、
どこか照れ隠しのような寂しさや虚しさとは、
少し違う印象だった。
強い感情が前に出てくるわけでもない。
分かりやすいメッセージがあるわけでもない。
何があるのか、すぐには掴めない。
ただ、とても洗練されていて、
静かで、大人っぽい曲だな、
そんな感想だけが残った。
それで、結論から言えば。
今の私には、刺さらなかった。
昔の星野源のほうがいい、とか、
今の星野源はどうだ、とか、
そういう話ではない。
ただ単純に、
「今の私」には刺さらなかった、
それだけのことだ。
でも、きっと。
彼には、私とは違う刺さり方があったのだろう。
同じ曲を聴いても、
同じ時代を生きていても、
心に引っかかる場所は、人それぞれ違う。
二十年以上会っていなくても、
近況を細かく語り合わなくても、
「今年いちばん聴いた曲」を
ふと思い出して、連絡をくれる関係。
それだけで、
ああ、いい友人を持っているな、
と思う。
そして、きっと、いつか。
私にも彼のように、
この曲が刺さる日が来るのだろう。
そのとき初めて、
私は彼の「今」を知ることになるのかもしれない。
私にとって、親友とはそんな存在だ。
ありがたい。
今、私は顧客データの整理という、ひとつの大きなプロジェクトに向かっている。
正直に言えば、
一円にもならない仕事だ。
当社はごみ処理の仕事をしている。
誰しもがクライアントになり得る仕事で、その分、顧客数はどうしても多くなる。
今回はその中でも、法人顧客に絞った整理だ。
気がつけば、向き合っているのは約20年分のデータだった。
やり方は、相変わらずのストロングスタイル。
PC内のデータ整理なのだから、本来であれば物理的なモノはない。
フォルダを開いて、ファイルを分けて、名前を整えて終わり。
きっとそれが、いちばん効率的なのだと思う。
でも、それではどうにもつまらない。
それに、ひとりで完結してしまう。
整理というのは、本当は
「みんなが関われる」ほうがいい。
そう思って、思い切って
持っているデータをすべてプリントアウトしてみた。
机の上に広がる大量の紙。
それらを一枚一枚手に取り、
紐づいているデータ同士をホチキスで留めていく。
この作業が、思いのほか楽しい。
画面越しに見るデータとは違い、
紙には重さがあり、手触りがあり、存在感がある。
ストロングスタイルを好む私には、
このやり方がいちばんワクワクする。
まずは第一弾、要不要のジャッジ。
もう存在しない会社。
当社との取引がとっくに終わっている会社。
名前を見ても、記憶がまったく蘇らない会社もある。
淡々と、でも確実に仕分けていく。
そして、
仕分け終えた紙を計量してみた。
結果はこうだった。
必要なものが 2.5kg。
不要なものも 2.5kg。
何ギガとか、何メガとかじゃない。
**kg(キログラム)**だ。
この数字を見たとき、
「よくここまで溜め込んだな」と、妙に腑に落ちた。
ここから先は、
中分類をして、最新情報を確認して、
紙のデータは最終的に電子データへと変換されていく。
でも、いきなりデジタルで完結させなかったのは、正解だったと思う。
物理的だと、
手で触れるから判断が早い。
複数人で同時に作業できる。
「これは何だっけ?」という会話が、その場で生まれる。
整理が、
ただの作業ではなく、共有の時間になる。
一円にもならない仕事かもしれない。
けれど、この整理が終わった先には、
これからの仕事を支える確かな土台がある。
昨日は、久しぶりにリユースショップへ、モノを手放しに行ってきた。
ジャケットが一着、ベストが一着、パンツが一着、カットソーが一着。
それに、ワイヤレスイヤホンをひとつ。
10年近く所有していたモノもあれば、昨年買ったばかりのモノもある。
それらをまとめて持ち込み、ほんの少しのお金を受け取った。
正直、持って行くのは手間だ。
けれど、使わないモノを「持っているだけ」という状態が、
私にとってはどうにも気持ちが悪い。
クローゼットにあるのに、
頭の中ではもう何年も使っていないモノ。
そのズレが、知らないうちに小さな罪悪感になる。
少しだけ余白ができたクローゼットを眺める。
その時間が、なんとも爽快だった。
そんな中で、ふと思い出したのが、
来春に着るスプリングコートのことだ。
もう何年も、これを買おうかどうしようか、迷っている。
5年ほど前、一度は手に入れたことがある。
けれど当時の自分には、少し大人っぽすぎた。
鏡の前に立つと、服に着られている感じがして、
結局そのまま返品した。
あれから時間が経った。
体型が大きく変わったわけでもないし、
急におしゃれになったわけでもない。
ただ、年齢を重ねて、
あのコートに自分が追いついてきたように思う。
セールになってたらいいな〜と淡い期待を寄せる。
整理収納アドバイザーとして、十数年活動してきた。
整理の大切さについては、もう嫌というほど分かっている。
それでも――
人のモノを片付けるという仕事は、いつまで経っても難しい。
多くのクライアントは、どこかで「魔法のように解決する」ことを期待している。
来てもらえさえすれば、あっという間に片付き、悩みが消える。
そんなイメージを抱いている方も少なくない。
けれど、整理収納アドバイザーは魔法使いではない。
まず、私は当事者ではない。
そのモノや情報が、
なぜそこにあるのか、
どれほど大切なのか、
それが分からないところから始まる。
フローなのか、ストックなのか。
個人のものなのか、家族や職場で共用しているものなのか。
そこが見えない。
さらに厄介なのは、
モノや情報が、あちこちに散らばっていることだ。
ほとんどの方は、全体像を把握していない。
断片的には分かっているけれど、
それらがどうつながっているのかまでは見えていない。
「なんとなく不安」
「管理できていない気がする」
そんな感覚だけが残っている。
だから私は、
一つひとつ、ほじくり出すように確認していく。
これは要るのか、要らないのか。
どれが重要で、どれがそうでもないのか。
誰が使っているのか。
本当に共有が必要なのか。
ここまでが、ようやく第一段階だ。
そのうえで初めて、
モノや情報を一元管理できるフォーマットをしつらえる。
フローとストックが誰にでも分かるルールを考え、
迷わず戻せる場所を決め、
入れ物を整え、
日々の管理まで含めて設計する。
モノ。
情報。
フロー。
ルール。
入れ物。
そして、日常の運用。
ここまで整って、やっとゴールが見えてくる。
そんなこんなで、
今日一日かけてできあがったのは、たった二枚のフォーマット。
紙にすれば、ほんの二枚。
見た目は地味で、誰でも作れそうに見えるかもしれない。
けれど、その二枚の裏には、
考えた時間と、迷った跡と、
「これなら続くだろうか」という想像が詰まっている。
一日仕事で、成果はフォーマット二枚。
なかなか骨の折れる仕事だ。
それが、整理収納アドバイザーという仕事。
片付ける人ではなく、
「考える土台」をつくる人なのだと思っている。
モノを本当に大切にするとはどういうことだろう。
新品を傷つけないように扱うとか、高い物を大事に使うことだけではない。
私がいちばん大切だと思っているのは、十分に働かせることだ。
もちろん、こき使うという意味ではない。
雑に扱って壊れるまで使い倒すこととも違う。
そのモノの良さを引き出し、役割を果たしてもらうということだ。
十分に働かせるとは、手入れをきちんとし、心を込めて大切にすること。
どこから来たのか、どんな特長があるのか。
そうした由来や良さを理解し、活かそうとする姿勢でもある。
そう考えると、たくさんのモノを持つことは難しい。
ただ所有しているだけでは、十分に働かせるところまではいかないからだ。
私自身、趣味のモノになるとつい危うい。
買ったばかりなのに、もう次は何を買おうかと考えてしまう。
これは「買う」行為が好きなだけで、手に入れる瞬間の高揚感――
いわば一種の麻薬のようなものだろう。
けれど、本当にモノを生かすとは、
オンリーワンの契りをどれだけ結べるかということではないか。
同じような物をいくつも持つのではなく、
「これ」と決めた一つとしっかり向き合うこと。
手入れをしながら、その良さを知り、働いてくれたことに感謝する。
そうやって関係が深まったモノは、
ただの道具ではなく、自分の暮らしや仕事を支えてくれる大切な存在になる。
大切にするとは、そういう向き合い方のことだと思う。
昔、「ダイヤモンドはダイヤモンドで磨かれる。人も人から磨かれるんだよ」
そんな言葉を教えてもらったことがある。
その時は妙に感動して、「なるほどな」と思った。
あれからもう20年ほど経った。
この半年を振り返ると、まさにその言葉の通りだった気がする。
いろんな人に出会って、いろんなことを言われたり、経験したりして、
そのたびに自分のクセとか、弱さとか、変なプライドとかが浮き彫りになった。
正直、昔の自分はけっこう傲慢だった。
傲慢っていうのは、自分を必要以上に大きく見せたり、
人の意見を聞く余裕がなくなったり、
「まあ当然だろ」みたいな態度をとってしまう、あの感じだ。
今思えば、ただ弱さを隠したかっただけなんだけど。
そんな自分が、ここ半年でちょっとは削られたというか、
角が取れたというか……まあ、磨かれたんだと思う。
先日、その“試験みたいなもの”がやってきた。
別に大げさな話じゃなくて、現実の中に突然やってくる、
逃げられないタイプの出来事だ。
あれが合格だったのか、不合格だったのかは分からない。
もしかしたら10年後になって「あぁ、あれか」と気づくのかもしれない。
ただ一つだけ言えるのは、
どんな時代になっても、人は人によってしか磨かれないということだ。
20年前に聞いた言葉は、やっぱり本当だった。
で、今はこう思う。
その先に何があるのか。
そんなヤボなことは考えるまでもない。
昨日、妻と焼き鳥屋さんへ行った。
ここは、いつもごみ収集でお世話になっているお客様のお店だ。
妻を連れて行くのは初めてで、前から一度案内したいと思っていた。
とはいえ、最近は日曜日も仕事が続いている。
その“罪滅ぼし”というか、“ご機嫌取り”というか、
まあ、そんな気持ちも正直あった。
カウンターに並んで座ると、話題があっちへこっちへ飛ぶ。
家のこと、子どものこと、どうでもいいようなこと。
私はといえば、弱いお酒をいつも油断して飲んでしまい、
案の定けっこう酔っ払ってしまった。
酔いが回った頃、妻がぽつりと言う。
「日曜日くらい、ぐうたらした方がいいよ。」
これが、私の最も苦手とすることだ。
日曜日も仕事を入れてしまう。
“やるべきこと”を探してしまう。
止まったら倒れる自転車のように、つい動き続けてしまう。
でも、妻の言葉は妙に胸に残った。
ぐうたらすることは、ただのサボりじゃなくて、
気持ちに余白をつくることなのかもしれない。
焼き鳥をつまみながら、
「たまには止まるのも悪くないか」と
ほんの少しだけ思えた夜だった。
今日もまた、つい動き回ってしまいそうだけれど、
妻のあの一言を、しばらくお守りにしてみようと思う。
今日のブログは、年中行事のお歳暮配りの話。
先代の頃から続けてきた習慣も、年々その数は少なくなっている。
何より今年は、お歳暮の仕入れ先が二つも無くなった。
店を閉める人の事情も、続けられなくなる背景も、それぞれにあるのだろう。
時代が静かに形を変えていくのを、こういう場面でふと実感する。
正直、「これって本当に意味があるんだろうか」と
胸の奥でつぶやく自分もいる。
効率や合理化だけを考えれば、
真っ先に見直されるべきものなのかもしれない。
それでも先代から受け継いだ“変わらないもの”がある。
年の瀬に「ありがとう」をかたちにするという、不易のこころ。
これは簡単に手放せるものではない。
頂くカレンダーも多く、
やっぱりこういう時間は悪くない、とどこかで思う。
変わっていくもの(易)と
変わらずに持ち続けたいもの(不易)。
そのあいだで揺れながら、
今年もひとつずつお届け中。
人生というのはおもしろいもので、重なるときはいろんなことが一気に押し寄せてくる。
けれど本当のところを言えば、どこかで何かが停滞しているから、その“つかえ”が後ろの予定や気持ちまでせき止めてしまうのだろう。
小さな見落としや、後回しにしてきたこと。
あるいは、心のどこかに置き去りにした感情。
そういうものが静かに積み重なって、気づけば焦りや不安が膨らみ、パニックの手前まで追い込まれてしまう。
そんなときに大切なのは、
いま起きている“事実”をどう捉えるか。
ただ、これが難しい。
事実と自分の解釈がごっちゃになり、憶測や思い込みが真実のような顔をして紛れ込む。
それが判断を狂わせ、さらに気持ちを曇らせてしまう。
だからこそ、そんなときはペンを持って書き出すのがいい。
アナログだけれど、ノートに書かれた言葉は不思議と冷静さを取り戻させてくれる。
こんがらがった糸がスルスルと解けていくように、次に取るべき行動が見えてくる。
時は師走。
気持ちばかりが先に走りがちだけれど、こういう時季こそ、一つひとつ。
丁寧に、順番に。
それだけで、また流れは動き始める。
舘ひろし主演『港のひかり』を観てきた。
妻が観たいということで、行ったのだが正直あまり期待していなかった。
見る前は、「なぜ舘ひろし」という気がしていたのだがは、あの役にまさしくぴったりだった。
時代遅れの任侠道を生き続ける男という役所が舘さん演じる三浦
観終わってから、心の奥にずっと残る“何か”があった。
それが何なのか帰りの車の中で考えていたら、ふと腑に落ちた。
——ああ、三浦の姿に、父を見ていたんだ。
これまでいろんな人に愛情をもらってきたけれど、
一番近くで影響を受けたのはやっぱり父だった。
不器用で、真面目で、弱さを見せず、
誰かのために動くことを当たり前のように生きてきた人。
三浦の不器用な優しさや、人のために生きようとする姿が、
気づけば父の背中と重なっていた。
だからあの絶望のシーンがあんなにも胸に刺さったのだと思う。
映画の大切なテーマのひとつに、
「強さとは、人のために生きること」という言葉があった。
それは映画の登場人物のものでもあり、
同時に、父が生き方で示してきた言葉でもあった。
『港のひかり』は、ただの映画ではなくて、
私の中に静かに眠っていた“父への感謝”を
そっと照らし出すような時間だった。
最近あまり描かれなくなった父性がこの映画にはある。