今日は空気がカラッとして、風が強く、まるで高原にいるような一日だった。
事務所の前の空き地に広がる草むらが、そよそよと風に揺れている。
その様子を眺めていたら、なんだか時間の流れがゆっくりになったような気がした。
東京では昨日、大雨で河川が氾濫した地域もあったらしく、事務員さんと「うちの子たちは大丈夫だったかな」と自然と話題に上る。
こちらはこんなにも穏やかなのに、同じ日本でこうも違うものかと、不思議な気持ちになる。
「親は子どものことを常に考えているが、子どもが親を思うのはたまにらしい」
以前どこかで読んだそんな言葉を、ふと思い出す。
地震が起きたらどうするか、避難場所はどこか。
連絡手段は一応伝えてあるけれど、いざという時に本当に機能するのだろうか。
もし海外転勤になったら、あの子はちゃんとやっていけるのか。
気にしたところでどうなるわけでもないけれど、親というのはいつも、そんなことばかり考えてしまうものらしい。
とはいえ、今のところ特に連絡はない。
それが、何よりの知らせなのだと思う。
環境省の調べによれば、2022年、日本で発生した食品ロスの量は約472万トン。
1日あたりに換算すると、およそ東京ドーム1杯分にも相当するという。
しかもその約半分が、家庭から出ているというのだから驚きだ。
そんな中、先日参加したビアパーティーで、ふと気づいたことがあった。
いわゆる「食べ放題・飲み放題」形式。
幹事としてはありがたい料金体系だが、
今回は少し様子が違っていた。
料理の補充が、以前より控えめ。
ラストオーダーも早めに切り上げられ、
全体的に「食べ残しを減らす」工夫が感じられた。
これはきっと、フードロス対策なのだろう。
けれど、その一方で、
「食べなきゃ損!」「元を取らなきゃ!」という空気も、
どこかエンタメとして根強く存在している。
子どもには「好き嫌いしない」「いただきますの心を大切に」と教えていながら、
大人たちがその隣で、無理にお腹に詰め込んでいたら、
いったい何が“食育”なのかと考えてしまう。
放題という形式自体が悪いわけではない。
けれど、その楽しみ方に、
ちょっとした“節度”や“意識”があるだけで、
ずいぶん違う未来になるのではないか。
だいいち、食べすぎて健康を害したら、
「元」どころか「損」しているのでは? と思う。
食べ物には、たくさんの手間と時間と命が込められている。
本当に美味しいものは、
たくさん食べることではなく、
ちゃんと味わうことで、心に残っていく。
日々ごみを扱う私たちも、やはり心と胃袋という機関によって命を繋いで頂きたいと願ってやまない。
食べものと、もう少し、丁寧につきあっていきたい。
スーツを仕立てるというのは、実に難しい。
無限とも思えるパターン、ちっちゃな生地サンプル、
そして、鏡の前で「これ、似合うんだろうか?」と自問自答する日々。
正直、あのサンプル生地だけで全体像を想像するのは無理な話しだ。
ついWEBで誰かの着こなしを参考にしてみるものの、
その誰かは当然ながら自分と違う。
似合うかどうか? わからない。
そう、これはもう、経験と失敗が物を言う世界かもしれない。
そんなこんなで
やっと完成した今回の一着だったが、
やはり気になって、仕立て直しを決意する。
違和感はごまかせない。
訪れたのは近所の仕立て直し店。
店先には、80代?ぐらいに見える小柄な女性が座っていた。
一瞬、「大丈夫かな…」とよぎる不安。
だが、その方が放った第一声が、
「LINE登録で10%オフになりますよ〜」
この人、只者じゃない。
そう直感した。
そして意を決して私は告げた。
「裾を15ミリ詰めて、裾幅を20ミリ細く。膝上からテーパードでお願いします」
この繊細なオーダーが伝わるのか?
と思ったのも束の間、「ああ、それなら大丈夫ですね」と、
さらりと受け取る手つきに、職人としての風格がにじんでいた。
10日後、スーツは返ってきた。
パーフェクトだった。
「なんか違う」が、「これが良かったんだ」に変わる瞬間。
たった数ミリの調整が、着る者の気持ちまで整えてくれる。
スーツって、やっぱり不思議だ。
かの凄腕の女性に、心から感謝している。
物は語らない。
そして、語れない。
だから私たちは、物を「思い通りにできる存在」だと信じている。
使うもよし、仕舞うもよし、処分するもよし。
何ひとつ、文句を言ってこないからだ。
けれど、そうやって“思い通り”にした結果、
押入れの奥で、棚の上で、物たちは静かに時を止めてしまう。
まだ使えるのに、使われない。
生かされず、ただ「取っておかれている」。
それは、死蔵された命に似ている気がする。
私は、物にだって“役割”や“願い”のようなものがあると感じている。
食器は食卓で、服は体に寄り添って、
家具や道具は日々の営みを支えるために、生まれてきた。
なのに、それを奪っておきながら、
「捨てるのはもったいない」と自分に言い訳して、閉じ込めているのではないか。
一方で、「我が子」はどうだろう。
語る。語りかけてくる。
そして、決して思い通りにはならない。
心配し、悩み、時に腹を立てながら、
それでも私たちは子を見守る。
なぜなら、その存在に「意思」があり、「未来」があると知っているから。
物には意思も未来もない、と思われがちだけれど、
実は私たちがそれをどう扱うかで、
その“命の行き先”を決めてしまっているのかもしれない。
だから私は、物にも少しだけ、子に向けるような慈しみの目を向けたいと思う。
ただ便利だから、役に立つからではなく、
“今、ここで生きているか?”と問いかけるような目で。
子どもを押し込めて育てることができないように、
物だって、閉じ込めておいてはその価値を発揮できない。
今日も、手に取る。
使ってみる。譲ってみる。
そして、ときには「ありがとう」と言って手放してみる。
物は語らないけれど、
私たちの手の中で、その沈黙が意味を持つときがある。
車で庄内浜の海岸線を走っていた。
窓を開けると、潮の香りがふわっと鼻をくすぐる。
その瞬間、「ああ、夏が来るな」と思った。
海開きはまだ先のはずなのに、
浜辺の空気は、もうすっかり夏の準備ができていた。
監視本部の前では、スタッフの皆さんが監視台や資材を運んでいて、
その様子にはすでに、夏の高揚感と緊張感があった。
今年も始まる。庄内の夏が。
ふと視線を海に向けると、もう海に入っている人たちがいた。
高校生くらいのグループがTシャツのまま、波に飛び込んでいる。
まだ“正式には”開いていないけれど、この暑さじゃ入りたくもなる。
夏は、誰かが「スタート」と言う前から始まっている。
そして道路では、ちょっとしたサプライズがあった。
モクズガニが1匹、トコトコと横断中。
あまりの暑さに誘われて出てきたのか
と思ったが、実はこの時期、彼らは産卵のために海へ下りてくるらしい。
モクズガニは普段、淡水〜汽水域に生息しているけれど、
夏になると、こうして海岸線の道路を横断することがあるのだという。
生き物たちは、人間の都合とは関係なく、ちゃんと自分たちのリズムで夏を始めている。
もしかすると、「開くのを待っている」のは僕たち人間のほうなのかもしれない。
海も、波も、風も、カニさえも、もうとっくにスタンバイOKだ。
今年もこの庄内浜が、何かを洗い流し、何かを始めさせてくれる気がする。
そんな夏の入り口に、車窓から少しだけ立ち会った気がした。