物は語らない。
そして、語れない。
だから私たちは、物を「思い通りにできる存在」だと信じている。
使うもよし、仕舞うもよし、処分するもよし。
何ひとつ、文句を言ってこないからだ。
けれど、そうやって“思い通り”にした結果、
押入れの奥で、棚の上で、物たちは静かに時を止めてしまう。
まだ使えるのに、使われない。
生かされず、ただ「取っておかれている」。
それは、死蔵された命に似ている気がする。
私は、物にだって“役割”や“願い”のようなものがあると感じている。
食器は食卓で、服は体に寄り添って、
家具や道具は日々の営みを支えるために、生まれてきた。
なのに、それを奪っておきながら、
「捨てるのはもったいない」と自分に言い訳して、閉じ込めているのではないか。
一方で、「我が子」はどうだろう。
語る。語りかけてくる。
そして、決して思い通りにはならない。
心配し、悩み、時に腹を立てながら、
それでも私たちは子を見守る。
なぜなら、その存在に「意思」があり、「未来」があると知っているから。
物には意思も未来もない、と思われがちだけれど、
実は私たちがそれをどう扱うかで、
その“命の行き先”を決めてしまっているのかもしれない。
だから私は、物にも少しだけ、子に向けるような慈しみの目を向けたいと思う。
ただ便利だから、役に立つからではなく、
“今、ここで生きているか?”と問いかけるような目で。
子どもを押し込めて育てることができないように、
物だって、閉じ込めておいてはその価値を発揮できない。
今日も、手に取る。
使ってみる。譲ってみる。
そして、ときには「ありがとう」と言って手放してみる。
物は語らないけれど、
私たちの手の中で、その沈黙が意味を持つときがある。