情報の入れ方というのは、今やSNSが中心になっているのだろうと思う。もちろん便利だし早い。けれども、そこにはどうしてもバイアスがかかる。自分の見たいものばかりが集まり、そこから世界を眺めていると、いつの間にか少しおかしな景色になってしまうこともある。
気がつけばテレビもあまり見なくなった。
そんな我が家で、この春ひとつ小さな変化があった。新聞を取ることにしたのだ。
10年ほど前までは購読していたのだが、ある日ポストを覗いても最近来ていないなと思ったら、妻が相談もなく解約していた。2、3日読まなかったのが理由だそうだ。なるほど、確かに読まれない新聞ほど寂しいものはない。
それ以来、新聞とは縁がなかった。
今回、購読することになったきっかけは高校2年になる息子だった。学校の先生に、試験対策なのか新聞を読むようにと言われたらしい。妻は「どうせ読まないでしょ」と反対したが、私は少し違った。
私も読みたい。
そう思って、息子と二人でお願いしてみたところ、無事に受理された。
どの紙がいいのかは息子に任せた。右とか左とか色々あるから、自分で調べて決めてみたらいい。息子なりに調べて、Y紙にした。
新聞が届き始めて、2〜3日ほど経過した。部活が忙しいと読めないかな、と本人も言っていたのだが、思っていたよりしっかり読んでいる様子だ。社会面を開いたまま朝食をとっている姿を見ると、なんだか少しうれしくなる。
以前はタブレットに片耳ワイヤレスイヤホンというのが定番の食卓で、思わず「サイボーグかいな」とツッコミを入れてしまうような朝だった。
それが今は、紙をめくる音がしている。
雀が少なくなっているとか、そんな記事にふと目が止まる。知らないことって、まだまだ多いなあと感じる。世界を見ているつもりで、実はほんの一部しか見ていなかったのかもしれない。
新聞という知りたくない情報も含め流れてくるものを受け取る感覚。
息子と同じ新聞を囲む朝が始まったことも、なんだか静かにうれしい。
今、繰り返し聴いている音楽がある。エマニュエル・シャブリエの《狂詩曲スペイン》だ。
明るくて軽快で、春にぴったりのウキウキする楽曲だと思う。
聴いていると気持ちが自然と前を向く。そして不思議なことに、この曲にはどこか懐かしさがある。初めて聴いたはずなのに、前から知っていたような気がするのだ。もしかすると前世で聴いていたのではないか、そんな冗談のようなことまで思ってしまう。
調べてみると、この曲が作られたのは1883年。日本では明治16年の頃だという。鹿鳴館の時代、文明開化の空気が広がっていた頃に、遠くヨーロッパではこんな軽やかな音楽が生まれていたのだ。当時の日本人の耳にも届いていたのかもしれないと思うとロマンがある。
さらに1961年録音のレコードを見つけたので、思わず注文してしまった。針を落としたとき、どんな音が立ち上がるのか今から楽しみで仕方がない。
雪解けが進み、景色の色が少しずつ変わっていくこの季節。この曲を心地よく感じられるということは、自分自身もまた前を向いている証拠なのかもしれない。
子供との接し方というのは、思春期ともなればなかなか難しい。
昨日、妻と末の娘が何やら言い争いをしていた。
どうしたのと妻に聞くと、娘は
「お父さんには言わないで」
と言っていたそうだ。
理由は分からない。
分からないのだけれど私は、
「娘のいいようにしてやれば?」と伝えた。
すると妻は少し考えてから、
「私もあの頃そうだったな〜」と頷いていた。
親子の関係で「子供に寄り添ってください」という言葉は、人生相談などでよく目にする。
けれど寄り添うというのは、案外むずかしい。
子供を信じること。
子供を自分のものだと思わないこと。
寄り添うというのは自分ではそういうことなのかなと思った。
しかしやってみると中々勇気がいる。
全部を知ろうとしないことも、たぶん大事なのだと思う。
信じるというのは、そばに置いておくことではなく、
手放すという感覚に近いのかもしれない。
エアコンの取り外しの依頼があって行ってきた。
90代ぐらいのおばあちゃんの住むマンションだ。予定を覚えていてくれるか心配だったが、エアコンの下に脚立まで構えていてくれた。
入ると対面キッチンのダイニング側に、仏壇が置かれていた。ご主人に先立たれたのだろうということが自然と伝わってきた。
エアコンはガスを回収するために電源を入れる必要があるので、「リモコンありますか?」と聞くと、「これかしら」と差し出されたのは、なぜか爪切りだった。
「あ〜ちょっと違うかな〜」と言って、本体のスイッチで強制運転をかけてガスを回収する。
作業の間、いろいろなお話をした。
買い物はどうされていますか?と聞くと、「近くのスーパーまで歩いて行ってるの。健康のためにね」と教えてくれた。
なんとかんく、持ち物や所作で現役の頃の職業を推測してしまうのが悪い癖で、先生ぽいなと思い、先生をされていましたか?と聞いてみると、
「隣町の役場に勤めてました」とのことだった。
あの役場は新しくなりましたが、行かれましたか?と聞くと、「この前、娘に連れていってもらって見てきたの、だいぶ変わってたね〜」と少しうれしそうに話してくれた。
そして最後に、しっかり作業料金は値切られた。
この方の人生の数万分の1の時間を共有して、人生のほんの一部だけれどを伺うことができた。
昨日、「侍タイムスリッパー」を観た。幕末の会津藩士が140年後の現代に現れるという物語だが、印象に残ったのは刀でも戦いでもなく、ひとつの静かな所作だった。
どうでもいいようなワンシーンだが、混乱の中でも彼は布団をきちんと畳んでその場を後にする。
ほんの短い場面なのに、「武士とはこういうものだ」と自然に思わせる力があった。もちろんフィクションなのだけれど、不思議と納得してしまう。きっと武士ならそうするのだろう、と。
実は私は朝の布団を畳むかどうかで、妻によく注意される。どうせ私がもう一度畳むのだから、そのままでいいと言われるのだ。合理的に考えればその通りである。
けれど今朝は違った。映画の余韻のまま、きっちり畳んでから出社した。
すると不思議なもので、気持ちが整う。
布団を畳むというのは効率の問題ではなく、「後始末」なのだと思う。自分がいた場所を整えて去るという、小さな区切りのようなものだ。
私たちの仕事もまた後始末に関わっている。暮らしのあとを整え、時間の痕跡を整え、人の営みを次へ渡していく仕事だ。
整えて去る。
それだけのことなのに、そこには確かな気持ちよさがある。