「絶対に負けられない戦い」
そんな表現を、僕ら日本人はどうも好むらしい。
気づけば、自分の人生も、そんな“負けられない場面”に踊らされて来た気がする。
仕事、家族、地域の役割。
「ここは譲れない」「ここだけは…」と、自分に言い聞かせながら。
でも、ふと立ち止まって思う。
それは一体、誰との勝負だったのだろうか?
誰に勝つ必要があったのか。
勝ったところで、本当に得たかったものは手に入ったのか。
その答えが、実はずっと曖昧だった。
50歳を前にして、ようやく少しずつ見えてきた。
もう、誰かの尺度や物差しで自分の在り方を決めなくてもいい。
「自分はどうしたいのか」その問いを軸に選ぶようになった。
いや、もうすでに、選んでいる。
自分で選び、自分で納得し、自分でケツをまくる。
そんな生き方が、少しずつ自分の中に根を張っている。
勝ち負けじゃない。
どう生きて、どう終わるか。
腹をくくる先に、ようやく「自分らしさ」が見えてくる。
そんなことを
会社の経営というものを通して、僕は教えられた気がする。
社長業10年目の年。
ここまで来て、やっと本当の意味で「できる」と思えるようになった。
そして今、心から思う。
ピンチはチャンス。
何度も耳にする言葉だけれど、
実際にチャンスへと変えられる人は、“感度”が高い人だと思います。
ただ、厄介なのは、
その“ピンチ”が、ピンチらしく姿を現してくれないこと。
先日も、ある出来事がありました。
表向きはうまくいっているように見えて、実際、周囲からも「よかったですね」と言われた。
でも、内心、何かひっかかっていたんです。
言葉にしづらい、ざわざわした違和感。
結果として、その“ひっかかり”は的中しました。
あとから振り返れば、あれは明らかに「覆面ピンチ」だったのです。
「順調」とか「ラッキー」とか、
そう思っていた時こそ、疑ってみる冷静さが必要なのかもしれません。
感度を研ぎ澄ますって、
実は、違和感をスルーしないこと。
チャンスを掴む以前に、
その覆面の下にある“ピンチの顔”を見抜けるかどうか。
日々の暮らしのなかで、
そんな目線を持っていたいなと思います。
名古屋空港に降り立った瞬間、表示された気温は35℃。
蝉の声こそまだ聞こえませんでしたが、ジリジリと焼きつけるような日差しに、
「ああ、夏がすぐそこまで来ている」と肌で感じました。
その足で向かったのは、国宝・犬山城。
木曽川を望む高台に建つその姿は、まさに威風堂々。
天守閣に上がってみると、その高さに少し足がすくみました。
でも、それ以上に、風が気持ちよかった。
景色が開けていて、遠くまで見渡せて、「いま、ここにいる」という実感が、すとんと胸に落ちてきました。
城下町の散策もまた楽しく、
ふとすれ違った浴衣姿のカップルや、
地元のおじいちゃんの何気ない会話に、旅情を感じました。
そして明日は、人生で初めて岐阜県での講話に臨みます。
これまでさまざまな地域でお話させていただく機会をいただきましたが、
初めての土地というのは、やはり少しだけ胸が高鳴ります。
どんな出会いが待っているのか。
どんな言葉が、この場所で届くのか。
犬山の空の下、歴史の風に吹かれながら、そんなことを静かに思っています。
娘のバレーボール部、三年生最後の大会である総体が終わりました。
これで部活動は引退。そして、私の保護者会長としての任も、ここで一区切りです。
昨年のソフトテニス部に続いて、二年連続の保護者会長。
部活が変われば、関わる人も内容も全く異なり、毎回が新しい挑戦でした。
バレー部特有の熱気、体育館での声援、親同士のつながり…。
学年を越えた温かいチームワークの中で、多くのことを経験させてもらいました。
そんな中、私が日々てんてこまいだったのを見ていた娘は、
「終わって、ゆっくりした?」と何度も聞いてきました。
まるで自分が迷惑をかけていたかのように、どこか責任を感じていたのかもしれません。
「大変だったけど、終わってしまうと不思議と全部いい思い出になるね。
テニス部の時よりも、自分がちょっと成長できた気がするよ」と私が言うと、
娘は「成長って…」と不思議そうな顔。
たしかに、大人になってからの“成長”って、子どもにはピンとこないのかもしれませんね。
でもこの歳になっても、役割や出会いを通じて、自分が少しずつ変わっていく感覚はあるものです。
誰かのために時間を使うというのは、
慌ただしい中にあっても、かけがえのない何かを残してくれるものですね。
ありがとう、バレーボール部。
そして娘よ、本当におつかれさま。
子どもの頃、自分の中に“ちょっと得意なこと”があるだけで、
なんとなく自信が持てた時期があった。
誰かに褒められるたびに、
「自分って、少しはすごいのかも」と思えた。
でも、あるとき気づく。
上には上がいる。
自分の「得意」は、案外通用しない。
その瞬間、自信が少しずつ崩れていく。
それ以来、本気を出すことが、少し怖くなった。
でも、たぶんそれ以上に怖かったのは、
自分の感情を表に出すことだったのだと思う。
悔しい、恥ずかしい、怖い。
そんな気持ちを見せたときに、
「弱いと思われるんじゃないか」と不安だった。
だから私は、感情を隠すために、
強がったり、笑ってごまかしたりする術を身につけていった。
ある日、信頼している人に言われたことがある。
「なんでそんなに平気そうな顔してるの? そんなに強くないくせに」
その言葉が、心に引っかかった。
たしかに私は、鎧のようなものをまとっていたのかもしれない。
大人になった今でも、何かに向き合おうとするとき、
背中の奥に、ゾワッとするような違和感が走る。
あの感覚は、長い間「不安」や「気持ち悪さ」として処理していたけれど、
最近になって、少し見方が変わった。
あれは、もしかしたら――
“伸びしろセンサー”なのかもしれない。
感情が動くとき、
自分にとって大事なものに近づいたとき、
そのセンサーがそっと知らせてくれている。
「ここを越えたら、変われるかもしれないよ」と。
だから最近は、センサーが反応したときこそ、
感情を押し殺すのではなく、少しずつ表に出してみようと思っている。
それでも迷うときは、
誰かに薦められたら、あえて乗ってみる。
ひとりじゃ進めないときほど、
差し出された言葉に乗っかることが、自分を広げるきっかけになることもあるから。
感情を出すのは、今でも少し怖い。
でも、怖いままでもいい。
その先にある“ちょっと新しい自分”に出会えたら、それで十分だと思っている。