2025年も残り100日を切りました。
改めて振り返ってみると、順調に進んでいる目標もあれば、軌道修正が必要なものもある。なかには「そもそも、なぜ立てたんだっけ?」と首をかしげるものもあります。
日記帳を読み返しながら「あの月にはこんなことがあったな」と思い出すのは楽しい時間です。予想もしなかった出会いや出来事から、新しい目標が生まれていたりするのも興味深いところ。
けれど、忘れてならないのは「なんの為に」という原点です。そこさえぶれていなければ、目標は通過点にすぎません。予定通りに進まなくても、根っこが定まっていれば、進む方向は変わらないのです。
そしてもうひとつ大事なのは、この9ヶ月をなんとかかんとかやってこれたということ自体への感謝です。完璧じゃなくても、計画通りじゃなくても、毎日を積み重ねてこれたこと。それを支えてくれた人たちや、日々の小さな出来事に、あらためて「ありがとう」と言いたい気持ちになります。
残り100日。
不足を数えるより、ここまでやってこれたことに感謝しながら、「なんの為に」を胸に、また一歩ずつ。今年の終わりにはきっと、そんな自分を少し誇らしく思えるのではないでしょうか。
人生には、必ず苦難が訪れる。
自分の力で対処できることもあれば、どうにもならないこともある。
そのどちらにせよ、心が折れそうになり、逃げ出したくなる瞬間がある。
以前、10億円以上の借金を背負いながら、何度もどん底から立ち上がった経営者からこう聞いた。
「苦難と喧嘩するな。」
苦難がやってくると、怖い、逃げたいという気持ちがあふれ出す。
そしてそれを脱したいと焦り、苦難と戦ってしまうことが多い。
しかし、それではますます出口が見えなくなってしまう。
そこで大事なのは、喧嘩をしないこと・戦わないこと。
ありのままを受け止め、心を空にして、ほんの少し前に進んでみること。
その小さな一歩が、未来を変えていく。
そしてもうひとつ、大切なのは「明るさ」なのだそうだ。
ここでいう明るさとは、無理に笑ったり、陽気にはしゃぐことではない。
真っ暗闇の中、窓の向こうに浮かぶ月あかりを見ること。「明」にはそんな意味がある。
それが前を向くということ。
これこそが、明るく生きるということなのだ。
最近、道端に落ちているゴミを「誰かの落とした幸運だ」と思って拾うようにしている。ペットボトルや空き缶を見つけては「ラッキー」と口に出し、ひょいと拾う。そんな遊び心を続けていたら、今日、また「ラッキー」と言いながら拾い上げたものがあった。
それは、なんとおみくじだった。
私は普段、おみくじを引かない。初詣で家族が盛り上がっていても「俺はいい」と遠慮している。くだらないと思っているわけではない。むしろ、めちゃくちゃ気にしてしまうからだ。新年早々、大吉以外が出たら嫌だ。そんなジンクスを抱えているから、そっと距離を置いている。
なのに、図らずも手にしてしまったおみくじ。雨に濡れ、しわしわになっていたその紙を、破れないようにそっと広げてみた。そこには「大吉」とあった。
一般的に大吉が出るのは20%前後の確率だそうだ。
でもそれは自分でおみくじを引いた場合の話。では──道端に落ちているおみくじが、たまたま大吉である確率は? 20%に加え、その紙が風に飛ばされ、雨に打たれ、そして私の前に落ちている確率を掛け合わせる。もうほとんど天文学的な数字になってしまう。
そんな巡り合わせで、私は大吉を拾った。
これはもう偶然ではなく、何かの必然かもしれない。
だから私は、このおみくじをお守り代わりにすることにした。財布の片隅にそっと忍ばせておく。見るたびに、道端の「ラッキー」を思い出して、また前を向ける気がするから。
今、スタッフと一対一で面談を行っている。
「〇〇が悪い」「こうして欲しい」──様々な要望や意見、時には愚痴のような言葉が飛び交う。
そんな中で多いのは、他人ではなく自分を責めてしまう声だ。
「自分がもっと頑張ればよかったのに」「自分が至らなかったから」……。
実は私自身も、かつてはよくそうやって自分を責めていた。
最近は少なくなったとはいえ、ふと「ああ、また自分を叱っているな」と気づくことがある。
そんなときに効果的なのが「マジックワード」だ。
心を転換して自己を肯定する言葉。
それが「意外と自分は」という枕詞である。
「意外と自分は頑張ってきた」
「意外と自分は人に支えられてきた」
「意外と自分は続けてこられた」
そうやって言葉にしてみると、不思議と気持ちが和らいでいく。
少しだけ胸がひらけて、人に対しても優しくなれる。
完璧を目指すよりも、まずは「意外と自分は大丈夫」と認めてみる。
それだけで心は少し軽くなり、人との関わり方も自然と前向きになっていくのだ。
末の娘がコロナになり、ここ数日は妻と高一の息子と私の3人だけの食卓だ。
いつものように息子は片耳にイヤホンをして、iPadでYouTubeを観ている。そんな時、私は決まってこう声をかける。
「それ観せて」
すると息子はイヤホンを外して、画面をこちらに向けてくれる。そこから会話が始まるのだ。
今夜の話題は藤井風の新曲「Prema」。インドの言葉で“無条件の愛”を意味するらしい。「やっぱり彼は天才だよな」という話で盛り上がり、一緒に音を確かめるように聴く。
そこから話題は、私がお土産に買ってきた本『17歳のときに知りたかった受験のこと、人生のこと。』(びーまん著)へと移る。息子がよく観ているYouTuberが書いたものらしく、「面白い」と言いながらページをめくっている。
さらに流れは学校の音楽の授業の話に。ギターで「大きなのっぽの古時計」を弾いているらしい。
「一番簡単で、しかもカッコいいやつを教えてやろうか?」と、私は軽く差し出すように話す。紹介したのはSmashing Pumpkinsの『Tonight, Tonight』。私が高校三年の時にヒットした曲だ。あの頃の自分に響いたように、今度は息子にもその音が届いた。やがて彼は、私のギターを持ってぎこちなく弾き始めた。世代を超えて音楽がつながる瞬間だった。
表向きはたわいない会話に見えるけれど、その裏には少しだけ親心がある。
本は、手に取ったら一緒に話せたらいいなくらいの気持ちで置いてある。
ギターも、弾きたいならいくらでも教えるけれど、無理に押しつけるつもりはない。
「こうなって欲しい」と形を決めてしまわないこと。
そのくらいの距離感が、今の自分にはちょうどいい。