例にもれず、うちの犬もやってみた。結果はというと、ややぽってりとした中年女性に変身していた。目を閉じて舌をちょろっと出してる、あのいつもの寝顔そのまんま。なんというか、「ひと休み・ひと休み〜」って声が聞こえてきそうな感じだった。
面白くなってきたので、今度は自分の持ち物でも試してみた。毎日使っている鞄、長年愛用している腕時計、古びたスニーカー、そして20万キロ乗っている車。
こうして擬人化してみると、自然と「このモノに性格をつけるならどうだろう?」と考え始める。鞄は口うるさい相棒タイプ。中に何が入ってるか常に把握していて、「それ要る? ほんとに今日も持ってく?」と毎朝問いかけてきそうなイメージ。
腕時計は時間にうるさい冷静沈着な上司。無言でプレッシャーをかけてくるタイプ。スニーカーは気さくな幼なじみで、「今日はどこ行くの?」って顔して待ってる。車はもう完全に無口な親父。メンテナンスのタイミングになると、黙って調子を崩す感じ。
擬人化なんて、最初はただの遊びかと思っていたけれど、こうやって見えてくるのは、自分がそのモノにどれだけ情を抱いていたかということだ。長く使えば使うほど、「ああ、こいつと一緒に過ごしてきた時間って、やっぱり特別なんだな」と気づかされる。
AIが描き出すのは、モノの姿だけじゃない。自分自身の“見えない関係性”まで映し出してくれる。それがちょっと恥ずかしくもあり、でも不思議と温かい。
今は、家の中にあるモノ一つひとつを擬人化して、自分だけの「暮らしの登場人物図鑑」みたいなものを作ってみようかと考えている。意外と、人生の振り返りにもなるかもしれない。
今年も会社の花見の季節がやってきました。
…と言っても、満開の桜の下でブルーシート広げておにぎりと缶ビール、というわけではなく、お店でしっかり料理とお酒を楽しむ、いわば“大人の室内花見”。そして、なぜか恒例になっているのが「社長のひとことタイム」。
堅苦しくせず、でもそれなりに考えさせるような話を…と、今年は「鷹の選択」というエピソードを持ち出してみました。
ご存じの方もいるかもしれませんが、これは長寿の鷹にまつわる寓話です。
鷹は40歳を過ぎたころ、くちばしが曲がり、爪が鈍くなり、羽も重くなって飛べなくなる。まさに“老いとの戦い”です。このまま死を待つか、それとも痛みと時間をかけて自分を生まれ変わらせるか。
鷹は山奥にこもり、岩にくちばしを打ちつけて壊し、新しいくちばしを待ちます。そしてそのくちばしで爪を抜き、羽をむしり、新しく生え変わるのを耐え抜く。そして、再び空へ飛び立つ――そんな話です。
まあ、実際の鷹がそこまで劇的な再生をするわけじゃないらしいんですが、これがなかなかいい寓話なんです。
今までのやり方が通用しなくなったとき、思い切って手放すこと、変わること。それは簡単じゃないし、痛みもあるけれど、その先にしか“次のステージ”はない。そういうことを、この話は教えてくれます。
そして実は、私たちの会社も今まさに、この鷹のように生き残りをかけて変わろうとしている真っ最中。
新しい挑戦をするときは、失敗もあれば、不安もあります。でも、変化を恐れずに前に進めば、きっとまた高く飛べるはず。
てなことで、今日はそんな真面目な話もしながら、みんなとお酒を楽しみたいと思います。
今日ラジオで、「植物は飢餓状態になると超音波を発する」と知った。乾いて水を欲しがるトマトが、目に見えない小さな音で助けを求めているという。人間には聞こえないけれど、動物や機械には感知できるらしい。
その話を聞いて、妙に心に残った。人も、誰かに気づいてほしくて、目に見えないサインを出していることがあるのではないか、と。無言のまま、何かを知らせるように。気づかれないそのサインは、まるで宙に浮いた音のように、静かに漂っている。
人は誰かとのつながりの中で、安心を得る。信じられる相手、落ち着ける場所、ことばのいらない時間。そういった「心地よく頼れるもの」があって、ようやく自分を保てる。けれど、つながりが持てないとき、人は代わりの何かにすがってしまう。スマホやお酒、食べもの、過剰な仕事や、誰かで埋めようとした孤独。それらはほんの一時、気をまぎらせてくれるだけで、ほんとうにほしいものとは少し違う。
そう考えているうちに、ふと身のまわりの「物」にも目が向いた。長く使っているマグカップの欠けた口元、やけに音の大きくなった冷蔵庫、なぜか目につくまま放っていた靴。もしかしたら、物たちもまた、何かを知らせようとしていたのかもしれない。ただの劣化や故障ではなく、「そろそろ休ませて」とか「ありがとう」といった、小さな声で。
ツバメが、今年もやって来ました。
当社事務所の2階テラスにある、昨年の巣にそのまま戻ってきたようです。賑やかな鳴き声と小さな羽音とともに、何ごともなかったように巣に入り、子育ての準備を始める姿を見ていると、季節の巡りが確かに訪れたことを実感します。変わらぬ営みに、心がすっと整うような気がするのです。
今日、我々のパートナー富樫あい子さんが営む町家カフェ「古今cocon」が新たな節目を迎えました。
築150年の趣あるその町家で、これまでのカフェ営業に加え、日用雑貨と古道具の販売がスタートしたのです。
あい子さんは、この町家がある山王町で5年間温かくおもてなしをしてきた方。そんな彼女の手によって息を吹き返した町家に、私たちが家財整理の仕事を通して出会った古道具たちを、少しずつ卸しています。
家財整理とは、誰かの暮らしの記憶を丁寧に受け取り、未来へつなげていく仕事だと思っています。使い込まれた器、手になじんだ籠、時の流れが刻まれた木の小物。どれも、手放されてもなお、誰かの暮らしのなかで息をし続けたいと願っているように見えるのです。
そんな品々が、あい子さんの店の一角に静かに並び始めました。
ふらりと立ち寄ったお客さまが、「これ、母が使っていたのとそっくり」と手に取ってくださる姿を見かけると、過去と現在が、確かにつながっていることを感じます。
あのツバメのように、かつての巣をまた使うように。モノもまた、場所を変えて誰かの手で新たな時を刻んでいく。
私の仕事は、ただ整理することではなく、そうした循環をそっと手助けすることなのかもしれません。
日々の暮らしの中に、少しだけ立ち止まる時間が生まれる場所。
町家カフェの片隅で、そんな出会いを見届けていけたらと思っています。
古今さんのインスタはこちらから
https://www.instagram.com/cocon.tsuruoka?igsh=YXp6ZGNkNmZyN21x
末の娘が中学三年生になり、部活動の集大成である総体まで、あと2ヶ月を切った。
正直、父親としては部活動というものに複雑な感情がある。自分が中学生だった頃は、部活なんて理不尽のかたまりだった。怒鳴られたり、意味のわからない上下関係に従ったり、それが“当たり前”の空気だった。それでもやめるとか文句を言うなんてことはなく、ただ我慢してやりすごしていた。
でも、大人になって、そして今、親として娘の姿を見ていると、ふと思う。あの我慢に、本当に意味はあったのか? 耐えることでしか得られないものって、そんなに大切なんだろうか?私自身の人生に役立っているか?
それは「本人のためだ」とよく言われるけれど、それって一体、誰の“ため”?
それでも娘は、続けている。不満を口にする日もある。納得いかないことをぽつりと話す日もある。でも、やめたいとは言わない。その姿を見ていると、ただ流されているわけでもなく、自分なりに考え、折り合いをつけながら向き合っているのが伝わってくる。
最近では、何かに対する反応の仕方が少し変わった。言葉にせずとも、「まあ、いろいろあるけど私はやるよ」とでも言いたげな顔をすることがある。きっと、自分なりのやり方で、この部活との関わり方を見つけているのだろう。
あと2ヶ月。結果がどうなるかは正直分からない。でも終わったあとに、娘が「やってよかった」と思えるかどうか――それだけが、今の自分には一番大事な気がしている。
つい口を出したくなるときもある。でも、最後まで自分のやり方でやり切ってほしい。その背中を、静かに見ていようと思う。