パーソナルトレーニング6ヶ月コースが、いよいよ最終月に入った。
体重は約3kg減。
ウエストは4cm減。
数字だけを見れば、劇的な変化ではないかもしれない。
でも私にとっては、十分に現実的で、十分に嬉しい変化だ。
スーツのウエストが少し楽で、
階段を上ったときの息が少し軽い。
この「少し」が、日常の中では案外大きい。
この6ヶ月で手に入れた一番の成果は、
実は体重でも、筋肉でもない。
何を食べてはいけないかを知った。
何を食べると調子がいいか。
何を食べると眠くなるか。
何を食べると、翌朝むくむか。
何を食べると、体が重くなるか。
正解のメニューを覚えたというより、
「自分に合わないもの」が、体で分かるようになった。
これはたぶん、一生使える感覚だ。
正直、このコースが終わったらどうなるんだろう、という不安はある。
トレーナーがいなくなり、
予約がなくなり、
「行かなきゃ」が消えたとき。
人は簡単に元に戻る。
それを私は、仕事でも、暮らしでも、何度も見てきた。
そんなことを考えていたとき、ふと思い出した言葉がある。
「入るを量りて、出ずるを制す」
細井平洲の言葉だ。
最初に、場を量る。
状況を量る。
自分の立ち位置を量る。
そのうえで、
どこに着地するかを決める。
どう終えるかを定める。
経営でも、会でも、文章でも、
入り方が決まれば、出口は半分決まる。
この6ヶ月を振り返ってみると、
私はずっと「入るを量る」時間を過ごしていたのかもしれない。
自分の体は、何に反応するのか。
何を入れると、どうなるのか。
どんな生活リズムなら、続くのか。
無理をしたかと言えば、していない。
気合で乗り切ったかと言えば、たぶん違う。
ただ、淡々と量っていた。
どうやら私は、
一気に変わるのは得意ではないけれど、
コツコツ続けることは、案外できるらしい。
派手な目標は立てない。
気合も長くは続かない。
その代わり、決めたことを、静かにやる。
振り返ると、
続いているものがあり、
そばに残っているものがあり、
体もまた、静かに変わっていた。
正直、筋肉をこのまま維持するのは難しいと思う。
多少は落ちるし、サボる日も出てくる。
でも、
全部失う感じはしていない。
なぜなら私はもう、
戻り方を知っていて、
太り方も知ってしまっていて、
そして何より、
何を食べてはいけないかを知っているからだ。
パーソナルトレーニングが終わるというより、
管理される期間が終わって、
自分で選ぶ期間に入る。
6ヶ月かけて「入り」を量った。
これからは、自分で「出口」をつくっていく。
どんな生き方をしたいのか。
そして、それを支える身体はどうありたいのか。
その「出口」から逆算して、いまの入りを量る。
これは、身体の経営学なのかもしれない。
事務所でコピー機が印刷を始めると、いつも少しだけ空気が変わる。ツンとした、金属のようなにおい。ある朝ふと思った。あ、これ……うちの現場で使っているオゾン脱臭機と同じにおいだ。
私の仕事は、においと向き合う場面が多い。家財整理の現場。長く閉ざされていた家。水害のあとの部屋。そういう場所で、私たちはオゾン脱臭機を回す。しばらくすると、あの独特のにおいが空間に立ち始める。「効いてきたな」という合図のようなにおい。
消臭作業をしていると、オゾンは時を加速させる魔法のようだと感じる。それは、長い時間をかけて自然界がやっていることを、ほんの数時間に縮めてしまう仕事だからだ。風が通い、光が入り、微生物が働き、季節をまたいで薄れていくはずのにおい。それを、オゾンは一気に引き寄せる。
この仕事には、はっきりとした季節がある。冬はほとんど出番がない。消臭作業のオフシーズン。本番は5月から10月。湿気が出て、温度が上がり、家も空気もにおいを溜め込みはじめる頃。私たちの出番も、そこから一気に増えていく。
現場で脱臭機を回していると、においが消えていくのと同時に、その場所の「時間」が進んでいく感じがする。昨日まで確かにあった痕跡が、今日にはもう輪郭を失っている。私はときどき、片づけをしているのか、時間を動かしているのか、分からなくなる。
調べてみると、コピー機も印刷の過程で微量のオゾンを発生させているらしい。なるほど、と思った。事務所で嗅いだあのにおいは、現場で何度も嗅いできたにおいだった。
コピー機と脱臭機。
役目は違うのに、
あのにおいだけは、どちらにも立つ。
事務所でそれを嗅ぐと、
私は少しだけ、現場の時間を思い出す。
においが変わるとき、
何かが終わっている。
そしてたぶん、何かが始まっている。
新しいことを始めるとき、
それはだいたい「準備万端」の瞬間ではない。
まだ早い気もするし、
本当に必要なのかも分からない。
今のままでも、たぶん回る。
そんな地点で、えいっと踏み出す。
だから「新しい」が始まるときには、
いつも思い切りがいる。
ただ最近は、そのきっかけのほとんどが
「必要に迫られて」だ。
環境が変わり、
人が育ち、
やり方に歪みが出始める。
思えば今は、
父の時代から、私の時代に変わる時なのだ。
やり方も、判断も、背負い方も。
受け継いできたものを胸に収め、
今度は自分の足で立つ段階。
準備ができたから立つのではなく、
立たされた場所で、覚えていく。
そんな感覚に近い。
そんなことを考えていると、
家に帰って、息子が言う。
学校の音楽クラブで
何か演奏するんだとか。
歌か、ピアノか、ギターか。
ベースでもいいらしい。
じゃあベースやったら。
息子は笑顔で頷いた。
私から息子への時代は、
もう少し先のようだ。
コーヒーは苦手でも、コーヒーの香りは好きだという人は多い。
飲むとなると身構えてしまうのに、香りだけは不思議と受け入れられる。そこには味覚よりも先に、記憶や感情に触れる何かがある。
ジャコウネコのコーヒーの話を思い出す。
もともとは、野生のジャコウネコが完熟した実だけを選び、偶然生まれた希少なものだった。それが「価値がある」と分かった瞬間、効率化され、量産され、物語だけが残った。店頭に並ぶそれらは高価だが、どこかブロイラー的で、香りが薄い。
効率が進んだとき、真っ先に失われるのは、たいてい“香り”なのだと思う。
これは、コーヒーの話だけではない。
ブランドという色眼鏡に、私たちはいつの間にか魔法をかけられている。値段や名前が、安心や正解を保証してくれる。自分の感覚で確かめる前に、「これは良いものだ」と思わせてくれる。
けれど、本当に良いものは、そんな魔法がなくても、静かに伝わってくる。派手ではないし、説明もいらない。ただ、「これは好きだ」と自分の中で分かる。
しかし、私は実は、ブランドに弱い。
それでも、毎朝ハンドドリップで淹れるコーヒーは、スーパーで買った安い豆だ。
けれど、これがとても美味い。
今年は、
「ブランドマインドセットを捨てる」
というのを、自分のテーマにしてみようと思っている。
正月ということもあって、ネットフリックス三昧。友人に勧められた『葬送のフリーレン』を観始めた。
剣と魔法の世界。
勇者が魔王を倒し、世界は救われ、物語は終わる。
本来なら、そこで拍手をして幕が下りるはずだ。
けれど、この物語はそこから始まる。
エルフである主人公のフリーレンにとって、人の一生はあまりに短い。
十年一緒に旅をした仲間との時間も、彼女にとってはちょっとした出来事にすぎない。
だから当初、別れの重みも、後悔の輪郭も、はっきりとは掴めなかった。
一方で、人は変わる。
歳を重ね、立場が変わり、価値観が更新されていく。
変化の速さの中で、置いていかれたり、追いつこうと焦ったりしながら生きている。
フリーレンは、その速さに合わせようとしない。
代わりに、ゆっくりと歩き続ける。
そして言う。「遅すぎることはない」と。
この言葉が、不思議と胸に残った。
僕らの世代は、「何者かになりなさい」と強く言われて育ってきた。
結果を出すこと、役に立つこと、評価されること。
それが正解で、それ以外は遠回りのように感じていた。
けれど振り返ってみると、
与えられた評価や肩書きは、いつの間にか色褪せている。
手に入れたはずの「答え」は、次の瞬間には別の問いに上書きされていく。
フリーレンが教えてくれるのは、まったく別の価値観だ。
本当に欲しいモノとは、誰かから与えられるものではない。
それは、探し求めている時間そのものなのだと。
寄り道をし、立ち止まり、無駄に見えることを繰り返す。
探している最中は、不安もあるし、確信もない。
けれど、その時間だけは、後から奪われることがない。
何者かになれなかったとしても、
探し続けた時間は、確かにそこに残る。
それは誰かと比べるものでも、評価されるものでもない。
ただ、自分の人生の厚みとして積み重なっていく。
平和な時代のヒーローは、剣を振るわない。
世界を救うよりも、記憶を拾い、感情を学び、時間を抱えて歩く。
その姿は、派手ではないけれど、とても誠実だ。