家財整理の見積もりをしていると、ふと考えることがある。
「私は、いったい誰に向けてこの見積もりをしているのだろう?」
形式的な依頼者はたいてい、不動産屋さんや相続人の方々だ。
もちろん彼らは必要があって連絡してくれるのだけれど、どこか“他人事”の空気をまとっていることが多い。
「とにかく早く片づけてほしい」
「中のものは全部処分でいいです」
そんなふうに、事務的に淡々と話が進んでいく。
でも、家の中に一歩足を踏み入れると、空気が変わる。
暮らしていた人の気配が、そこかしこに残っている。
台所には使い込まれた鍋、壁には色あせたカレンダー、タンスにはまだ折り目のついた服。
誰かの生活の記憶が、静かにそこに息づいている。
そう気づくと、私たちは本当の依頼者は目の前にいる人ではなく、
“この家で長年暮らしてきた、もういない誰か”なのだと思い至る。
だから、たとえ「全部処分で大丈夫」と言われても、
私たちはその言葉を鵜呑みにせず、引き出しの奥や押し入れの中に、
まだ何か大切なものが残っていないか、静かに目を凝らす。
そして、たとえその見積もりが最終的に仕事に結びつかなかったとしても、
私たちはこの家と、その暮らしに、正直に向き合いたいと思う。
事務的な依頼者にモヤモヤしながらも、
心の奥では、本当の依頼者に向き合っているつもりで。
現場に出てクタクタになった日。
それでも最後の掃除機がけが、実はけっこう好きだ。
家財整理の仕事って、体力仕事でもある。
運んで、分けて、拭いて、また運んで。
一軒終わると、皆そろって「腰いてぇ〜」と呻いている。
……のだが、私は違う。
なぜか、腰痛が来ない。
20年やってきて、それなりに無理もしてきたはずなのに、
腰に来たと感じても次の日には回復している。
現場スタッフは皆、腰ベルトや湿布、時にはストレッチ体操までやっている。
でも私はといえば、汗だくになっても、大丈夫。
典型的な骨格ウエーブの体型がきっと柳のようにいなすのだろう。そう自分では感じている。
だから「やっぱり神様に選ばれてるんじゃないか」と、
本気で思っている節がある。
それで、空っぽになった家で(静かに?)掃除機をかける時間は、
本当に気持ちがいい。
何にも無くなって、風が通る部屋。
床に光が差し込み、お客様の笑顔が浮かぶ。
モノがなくなると、人の顔が柔らかくなる。
人生の満足度って、持ち物の量と反比例するって私は信じている。
旅行に行くのにカバンは小さい方がいい。人生もまた。
今日は、築15年になる我が家のメンテナンスをせっせとこなしていました。
かつて、建築当時にこだわりにこだわって作ってもらった造作キッチン。タイル貼りのカウンターが自慢だったのですが、最近どうも水漏れが…。「やるしかないか」と、防水コーキング材を片手に、素人なりの応急処置を。
照明も同じく、当時選び抜いたシャンデリア風のブラケットライトが、金属部分に錆が出たり、ガラスがくすんだり。こちらはメラミンスポンジでゴシゴシ。気持ちのいいくらい輝きを取り戻しました。
思えば、家を建てる前は、雑誌を何冊も読み漁って、細部まで設計士さんと相談しながら「私らしい家」を夢見ていたはずなのに。
建てたとたん、現れたのは現実。子育てに追われ、気づけば効率重視。オシャレとかデザインとか、封印したままの日々が続いていました。
でも最近、少しずつ風向きが変わってきました。子どもたちもあと数年もすれば巣立っていく予定。そう思うと、なんだか急に家が「私の場所」としてよみがえってきた気がします。
せっかくこだわって建てた家。くたびれてきたところは手を入れながら、当時のデザインや素材の良さをもう一度見つめ直していきたい。
これからは「使いやすさだけじゃない、心地よさも大事にしたい」と思えるようになった今だからこそ、また少しずつ“家づくり”を楽しめる気がしています。
差し当たって、まずはレコードプレーヤーを置ける部屋を仕立ててみようかなと。
音のある空間、好きなものに囲まれた空間。そんな時間を自分にプレゼントするのも悪くない。
15年目の我が家、まだまだ進化の途中。
これからは、過去の自分が選んだものに感謝しつつ、今の私の“好き”を少しずつ取り入れていく計画です。
今日は空気がカラッとして、風が強く、まるで高原にいるような一日だった。
事務所の前の空き地に広がる草むらが、そよそよと風に揺れている。
その様子を眺めていたら、なんだか時間の流れがゆっくりになったような気がした。
東京では昨日、大雨で河川が氾濫した地域もあったらしく、事務員さんと「うちの子たちは大丈夫だったかな」と自然と話題に上る。
こちらはこんなにも穏やかなのに、同じ日本でこうも違うものかと、不思議な気持ちになる。
「親は子どものことを常に考えているが、子どもが親を思うのはたまにらしい」
以前どこかで読んだそんな言葉を、ふと思い出す。
地震が起きたらどうするか、避難場所はどこか。
連絡手段は一応伝えてあるけれど、いざという時に本当に機能するのだろうか。
もし海外転勤になったら、あの子はちゃんとやっていけるのか。
気にしたところでどうなるわけでもないけれど、親というのはいつも、そんなことばかり考えてしまうものらしい。
とはいえ、今のところ特に連絡はない。
それが、何よりの知らせなのだと思う。
環境省の調べによれば、2022年、日本で発生した食品ロスの量は約472万トン。
1日あたりに換算すると、およそ東京ドーム1杯分にも相当するという。
しかもその約半分が、家庭から出ているというのだから驚きだ。
そんな中、先日参加したビアパーティーで、ふと気づいたことがあった。
いわゆる「食べ放題・飲み放題」形式。
幹事としてはありがたい料金体系だが、
今回は少し様子が違っていた。
料理の補充が、以前より控えめ。
ラストオーダーも早めに切り上げられ、
全体的に「食べ残しを減らす」工夫が感じられた。
これはきっと、フードロス対策なのだろう。
けれど、その一方で、
「食べなきゃ損!」「元を取らなきゃ!」という空気も、
どこかエンタメとして根強く存在している。
子どもには「好き嫌いしない」「いただきますの心を大切に」と教えていながら、
大人たちがその隣で、無理にお腹に詰め込んでいたら、
いったい何が“食育”なのかと考えてしまう。
放題という形式自体が悪いわけではない。
けれど、その楽しみ方に、
ちょっとした“節度”や“意識”があるだけで、
ずいぶん違う未来になるのではないか。
だいいち、食べすぎて健康を害したら、
「元」どころか「損」しているのでは? と思う。
食べ物には、たくさんの手間と時間と命が込められている。
本当に美味しいものは、
たくさん食べることではなく、
ちゃんと味わうことで、心に残っていく。
日々ごみを扱う私たちも、やはり心と胃袋という機関によって命を繋いで頂きたいと願ってやまない。
食べものと、もう少し、丁寧につきあっていきたい。