昔、「ダイヤモンドはダイヤモンドで磨かれる。人も人から磨かれるんだよ」
そんな言葉を教えてもらったことがある。
その時は妙に感動して、「なるほどな」と思った。
あれからもう20年ほど経った。
この半年を振り返ると、まさにその言葉の通りだった気がする。
いろんな人に出会って、いろんなことを言われたり、経験したりして、
そのたびに自分のクセとか、弱さとか、変なプライドとかが浮き彫りになった。
正直、昔の自分はけっこう傲慢だった。
傲慢っていうのは、自分を必要以上に大きく見せたり、
人の意見を聞く余裕がなくなったり、
「まあ当然だろ」みたいな態度をとってしまう、あの感じだ。
今思えば、ただ弱さを隠したかっただけなんだけど。
そんな自分が、ここ半年でちょっとは削られたというか、
角が取れたというか……まあ、磨かれたんだと思う。
先日、その“試験みたいなもの”がやってきた。
別に大げさな話じゃなくて、現実の中に突然やってくる、
逃げられないタイプの出来事だ。
あれが合格だったのか、不合格だったのかは分からない。
もしかしたら10年後になって「あぁ、あれか」と気づくのかもしれない。
ただ一つだけ言えるのは、
どんな時代になっても、人は人によってしか磨かれないということだ。
20年前に聞いた言葉は、やっぱり本当だった。
で、今はこう思う。
その先に何があるのか。
そんなヤボなことは考えるまでもない。
昨日、妻と焼き鳥屋さんへ行った。
ここは、いつもごみ収集でお世話になっているお客様のお店だ。
妻を連れて行くのは初めてで、前から一度案内したいと思っていた。
とはいえ、最近は日曜日も仕事が続いている。
その“罪滅ぼし”というか、“ご機嫌取り”というか、
まあ、そんな気持ちも正直あった。
カウンターに並んで座ると、話題があっちへこっちへ飛ぶ。
家のこと、子どものこと、どうでもいいようなこと。
私はといえば、弱いお酒をいつも油断して飲んでしまい、
案の定けっこう酔っ払ってしまった。
酔いが回った頃、妻がぽつりと言う。
「日曜日くらい、ぐうたらした方がいいよ。」
これが、私の最も苦手とすることだ。
日曜日も仕事を入れてしまう。
“やるべきこと”を探してしまう。
止まったら倒れる自転車のように、つい動き続けてしまう。
でも、妻の言葉は妙に胸に残った。
ぐうたらすることは、ただのサボりじゃなくて、
気持ちに余白をつくることなのかもしれない。
焼き鳥をつまみながら、
「たまには止まるのも悪くないか」と
ほんの少しだけ思えた夜だった。
今日もまた、つい動き回ってしまいそうだけれど、
妻のあの一言を、しばらくお守りにしてみようと思う。
今日のブログは、年中行事のお歳暮配りの話。
先代の頃から続けてきた習慣も、年々その数は少なくなっている。
何より今年は、お歳暮の仕入れ先が二つも無くなった。
店を閉める人の事情も、続けられなくなる背景も、それぞれにあるのだろう。
時代が静かに形を変えていくのを、こういう場面でふと実感する。
正直、「これって本当に意味があるんだろうか」と
胸の奥でつぶやく自分もいる。
効率や合理化だけを考えれば、
真っ先に見直されるべきものなのかもしれない。
それでも先代から受け継いだ“変わらないもの”がある。
年の瀬に「ありがとう」をかたちにするという、不易のこころ。
これは簡単に手放せるものではない。
頂くカレンダーも多く、
やっぱりこういう時間は悪くない、とどこかで思う。
変わっていくもの(易)と
変わらずに持ち続けたいもの(不易)。
そのあいだで揺れながら、
今年もひとつずつお届け中。
人生というのはおもしろいもので、重なるときはいろんなことが一気に押し寄せてくる。
けれど本当のところを言えば、どこかで何かが停滞しているから、その“つかえ”が後ろの予定や気持ちまでせき止めてしまうのだろう。
小さな見落としや、後回しにしてきたこと。
あるいは、心のどこかに置き去りにした感情。
そういうものが静かに積み重なって、気づけば焦りや不安が膨らみ、パニックの手前まで追い込まれてしまう。
そんなときに大切なのは、
いま起きている“事実”をどう捉えるか。
ただ、これが難しい。
事実と自分の解釈がごっちゃになり、憶測や思い込みが真実のような顔をして紛れ込む。
それが判断を狂わせ、さらに気持ちを曇らせてしまう。
だからこそ、そんなときはペンを持って書き出すのがいい。
アナログだけれど、ノートに書かれた言葉は不思議と冷静さを取り戻させてくれる。
こんがらがった糸がスルスルと解けていくように、次に取るべき行動が見えてくる。
時は師走。
気持ちばかりが先に走りがちだけれど、こういう時季こそ、一つひとつ。
丁寧に、順番に。
それだけで、また流れは動き始める。
舘ひろし主演『港のひかり』を観てきた。
妻が観たいということで、行ったのだが正直あまり期待していなかった。
見る前は、「なぜ舘ひろし」という気がしていたのだがは、あの役にまさしくぴったりだった。
時代遅れの任侠道を生き続ける男という役所が舘さん演じる三浦
観終わってから、心の奥にずっと残る“何か”があった。
それが何なのか帰りの車の中で考えていたら、ふと腑に落ちた。
——ああ、三浦の姿に、父を見ていたんだ。
これまでいろんな人に愛情をもらってきたけれど、
一番近くで影響を受けたのはやっぱり父だった。
不器用で、真面目で、弱さを見せず、
誰かのために動くことを当たり前のように生きてきた人。
三浦の不器用な優しさや、人のために生きようとする姿が、
気づけば父の背中と重なっていた。
だからあの絶望のシーンがあんなにも胸に刺さったのだと思う。
映画の大切なテーマのひとつに、
「強さとは、人のために生きること」という言葉があった。
それは映画の登場人物のものでもあり、
同時に、父が生き方で示してきた言葉でもあった。
『港のひかり』は、ただの映画ではなくて、
私の中に静かに眠っていた“父への感謝”を
そっと照らし出すような時間だった。
最近あまり描かれなくなった父性がこの映画にはある。