今日は実家に母を訪ねて行った。
会社のスタッフから孟宗をいただき、それを届けに行ったのである。
この時期、こちら庄内では孟宗竹を食べる習慣がある。
味噌仕立てに酒粕を入れ、豚肉と油揚げを合わせた「孟宗汁」は、春から初夏へ向かう季節の味だ。
そしてこの時期になると、スーパーから油揚げが消えるほど。
それくらい庄内の家庭では、一斉に孟宗汁が始まるのである。
…とはいえ、今回の実家訪問には、もう一つ大きな目的があった。
母の自動車とスマホを連携する設定作業である。
母と電子機器の軋轢は、もう20年以上続いている。
Windows XP時代のパソコン設定、インターネット接続、Wi-Fi設定、年賀状ソフトの住所録移行…。
その度に「ちょっと見てくれ」と呼ばれてきた。
スマートフォンになってからは、電話が鳴っても出られない。
理由を見ていると、スワイプ操作なのに、昔の固定電話のように“強く押して”いるのである。
押さなくていい、滑らせるだけでいい。
しかし、その感覚がなかなか難しい。
そんな母に話した。
「これから20年生きるとして、スマホとかタブレットとか使えたら、人生きっと楽しくなると思うよ。AIなんかも使ってみたら?」
すると母は少し警戒した顔でこう言った。
「AIは危険だって言ってたけれど…」
そこで私は思わず笑ってしまった。
「ビートルズを聴くと不良になる、って言われてた世代でしょう? それと今の、同じだよ」
新しいものが出てくるたび、人は少し怖がる。
テレビも、ゲームも、インターネットも、スマホも、全部そうだったのだと思う。
しかし今や、コンサートのチケットもスマホがなければ取れない時代。
飛行機に乗るにも、予約確認にも、QRコードにもスマホ。
便利というより、“社会の入り口”そのものがスマホの中に移り始めている。
もちろん、ついていけない人を切り捨てるような社会でいいとは思わない。
ただ、だからこそ少しずつでも触れておくことで、世界はずいぶん広がるのだろうとも思う。
母は「難しいのぉ」と言いながら、車のモニターを何度も触っていた。
その姿はどこか、新しい時代に恐る恐る手を伸ばしているようにも見えた。
昔、ビートルズを怖がっていた世代が、今では普通にスマホでYouTubeを観ている。
そう考えると、人間というのは案外、ちゃんと時代に追いついていく生き物なのかもしれない。
「ラン活」という言葉を聞いて、最初は何のことかと思った。
調べてみると、「ランドセルを選ぶ活動」の略らしい。
今のランドセルは6万円台が売れ筋。
AIが6年生の姿を予測し、似合う色まで提案してくれるというから驚く。
ただ、これだけ大切に選ぶからこそ、
卒業後に捨てるのが忍びない。
実際、片付けの現場でも、
押し入れの奥に残されたランドセルをよく見かける。
あれはモノというより、子供時代の記憶なのだと思う。
だからこそ、
売る側が最初から、
「回収します」
「リメイクできます」
「次の子へ繋げます」
そんな仕組みまで組み込んでくれるとありがたい。
“売って終わり”ではなく、
“使い終わった後まで含めて商品”。
そんな時代になっていくのかもしれない。
まあ、我が家ではもう、
ランドセル選びの心配はないのだけれど。
GWが明けて、今日から通常営業。
しかし、当社のある鶴岡東工業団地は、まだどこか静かだ。長めの連休を取っている会社も多いのだろう。工場の音も少なく、連休の余韻がまだ漂っている。
その一方で、私たちの仕事は一気に忙しくなる。
鶴岡市の燃やすごみ収集が一日お休みだったため、今日はとにかくゴミが多い。
GW中、人が動けばゴミも動く。
家の片付けをした人。
親戚が集まった家。
観光地や飲食店。
楽しい時間の後には、必ずその“痕跡”が残る。
そしてそれを回収するのが、私たちの仕事だ。
一台のパッカー車で十数トン。
二人で一日かけて回収する。
ふと計算してみる。
もしゴミ袋一つが3kgだとすると——
10000÷3≈3333
10トンで約3,300袋。
もちろん実際には軽い袋も重い袋もあるが、それでも気が遠くなるような数だ。
けれど現場では、それを「3,300袋だ」などとは考えない。
ただ一袋ずつ積んでいく。
止まって、降りて、持ち上げて、走る。
その繰り返し。
“コツコツ頑張る”という言葉は、地味な表現に聞こえる。
しかし本当は、
気の遠くなるような量を、
気の遠くならない顔で積み上げていくことなのだと思う。
GWの楽しかった思い出も、
賑わった街も、
誰かの暮らしも、
こうした名もない反復によって支えられている。
そして世の中は、案外こういう「コツコツ」でできているのだ。
ゴールデンウィークといえば、どこかへ出かけるというよりも、私は“整える時間”にあてることが多い。
お片づけもそうだが、この時期に必ずやるのが、革製品の一斉メンテナンスだ。
鞄、革ジャン、時計のベルト、財布、ベルト、そして革靴。
こうして並べてみると、身の回りは思っている以上に革製品であふれている。
一つひとつ手に取り、ブラシをかけていく。
それだけでも、見違えるように表情が変わるから面白い。
少し曇っていた革が、スッと息を吹き返すような瞬間がある。
ブラッシングするだけでも見違えるから、革製品には自然と愛着が湧いてくる。
買ったばかりの頃の“整いすぎた顔”も悪くないが、やはり惹かれるのは、使い込まれて少しずつ変わっていくその表情だ。
最初の印象とは違って、時間と手入れを重ねるほどに、どんどんいい顔になっていく。
傷やシワさえも、ただの劣化ではなく、自分の時間が刻まれた証のように思えてくる。
新品の輝きとは違う、手入れされたものだけが持つ艶。
それはどこか、人にも通じるものがある気がする。
だからまた、手に取る。
そして静かに、ブラシをかける。
モノを整える時間は、自分を整える時間でもある。
今年のゴールデンウィークも、そんなふうに過ぎていく。
Netflixのドラマ「地獄に堕ちるわよ」を観終えた。
もともとは妻が観ていたものを、横でなんとなく眺めていただけだったのに、気づけば最後までしっかり付き合っていた。
この作品は、「大殺界」という言葉でも知られる占い師、細木数子をモデルにした物語。
自伝の執筆を依頼された作家の視点を通して、ひとりの女性の波乱に満ちた人生が描かれていく。
占いの話のようでいて、実はとても人間くさい。
観終わって残ったのは、ひとつの気づきだった。
一人の女性の葛藤と同じ構造が、立ち上がろうと必死だった日本そのものだったのではないか。
焼け野原から始まる人生。
何もないところからのスタート。
今の私たちには想像しきれないけれど、
あの時代は「ない」からこそ前に進むしかなかった。
迷っている余裕なんて、きっとなかったのだと思う。
人の痛みを知っている人は、強い。
でも同時に、とても繊細でもある。
人の気持ちが分かるからこそ寄り添える。
でも分かるからこそ、自分の中の欲望や葛藤とも向き合うことになる。
その姿は、ただの一人の女性ではなく、
どこか時代そのものの姿にも見えた。
「大殺界」という言葉も、そう。
正しいかどうかよりも、
その言葉にすがりたくなる気持ちがあったということ。
不安な時、誰かに「大丈夫」と言ってほしい。
はっきりとした答えが欲しい。
それは、あの時代を生きた人たちも、
そして今の私たちも、きっと同じだ。
戦後の時代は、優しさよりも強さが求められた。
迷わず決めること。
前に進み続けること。
それが社会を動かし、日本を立ち上がらせた。
でもその裏側には、
誰にも見せない孤独があったのだと思う。
観終わって、ふと父親世代のことを思った。
多くを語らず、ただ働き続ける背中。
あの姿の中には、きっと言葉にしない思いがたくさんあったのだろう。
あの時代を生きるというのは、
想像以上に大変で、そして静かな孤独と共にあったのかもしれない。
欲望は、悪いものではないのだと思う。
何もないところから立ち上がるためのエネルギー。
誰かを守るための力。
でもその強さは、ときに自分自身も揺さぶる。
このドラマを観て、
少しだけ、あの時代とそこに生きた人たちが近くなった気がした。