公民館に、ごみの件で伺うことがある。
そのたびに、決まって出てくる話題がある。
「この傘、どうしたらいいでしょうか」
玄関の隅に、忘れられた傘が何本も立てかけられている。
黒や紺の、どこにでもあるような傘だ。
壊れているわけではない。
開けば、ちゃんと雨をしのげる。
「まだ使えますよね」
「処分してもいいものか迷っていて」
そう言われると、簡単には答えられない。
「よければ使ってください」と声をかければいいかというと、
それもなかなか難しい。
「それ、自分のものだと言われると困るので」
そんな遠慮が、言葉の端ににじむ。
身近な関係の中では、
“もらう”という行為ひとつにも、微妙な気遣いが生まれる。
便利さよりも、距離感の方が大切にされる場面だ。
誰のものでもなくなった傘。
けれど、完全に無関係にもなりきれない。
そんな曖昧な場所に、静かに立てかけられている。
ふと、思い出す。
大正生まれの祖父母が、傘のことを「コウモリ」と呼んでいたことを。
丸く広がるその形は、確かに羽を広げたコウモリのようにも見える。
子供の頃、意味も分からず使っていた言葉だが、不思議と記憶に残っている。
コウモリは、粋な言い回しかもしれない。
ただの傘を、少しだけ違って見せる。
見慣れたものに、もうひとつの輪郭を与える。
昔の人は、そうやって
暮らしの中に、ささやかな遊びを忍ばせていたのだろう。
今、目の前にある傘たちも、
ただの“忘れ物”ではないのかもしれない。
誰かの帰り道。
急な雨。
誰かと歩いた時間。
そうした記憶が、静かに染み込んでいる。
さて、このコウモリたち。
どこへ飛ばしてやるのが、いちばんいいのだろうか。