整理収納アドバイザーとして、十数年活動してきた。
整理の大切さについては、もう嫌というほど分かっている。
それでも――
人のモノを片付けるという仕事は、いつまで経っても難しい。
多くのクライアントは、どこかで「魔法のように解決する」ことを期待している。
来てもらえさえすれば、あっという間に片付き、悩みが消える。
そんなイメージを抱いている方も少なくない。
けれど、整理収納アドバイザーは魔法使いではない。
まず、私は当事者ではない。
そのモノや情報が、
なぜそこにあるのか、
どれほど大切なのか、
それが分からないところから始まる。
フローなのか、ストックなのか。
個人のものなのか、家族や職場で共用しているものなのか。
そこが見えない。
さらに厄介なのは、
モノや情報が、あちこちに散らばっていることだ。
ほとんどの方は、全体像を把握していない。
断片的には分かっているけれど、
それらがどうつながっているのかまでは見えていない。
「なんとなく不安」
「管理できていない気がする」
そんな感覚だけが残っている。
だから私は、
一つひとつ、ほじくり出すように確認していく。
これは要るのか、要らないのか。
どれが重要で、どれがそうでもないのか。
誰が使っているのか。
本当に共有が必要なのか。
ここまでが、ようやく第一段階だ。
そのうえで初めて、
モノや情報を一元管理できるフォーマットをしつらえる。
フローとストックが誰にでも分かるルールを考え、
迷わず戻せる場所を決め、
入れ物を整え、
日々の管理まで含めて設計する。
モノ。
情報。
フロー。
ルール。
入れ物。
そして、日常の運用。
ここまで整って、やっとゴールが見えてくる。
そんなこんなで、
今日一日かけてできあがったのは、たった二枚のフォーマット。
紙にすれば、ほんの二枚。
見た目は地味で、誰でも作れそうに見えるかもしれない。
けれど、その二枚の裏には、
考えた時間と、迷った跡と、
「これなら続くだろうか」という想像が詰まっている。
一日仕事で、成果はフォーマット二枚。
なかなか骨の折れる仕事だ。
それが、整理収納アドバイザーという仕事。
片付ける人ではなく、
「考える土台」をつくる人なのだと思っている。
モノを本当に大切にするとはどういうことだろう。
新品を傷つけないように扱うとか、高い物を大事に使うことだけではない。
私がいちばん大切だと思っているのは、十分に働かせることだ。
もちろん、こき使うという意味ではない。
雑に扱って壊れるまで使い倒すこととも違う。
そのモノの良さを引き出し、役割を果たしてもらうということだ。
十分に働かせるとは、手入れをきちんとし、心を込めて大切にすること。
どこから来たのか、どんな特長があるのか。
そうした由来や良さを理解し、活かそうとする姿勢でもある。
そう考えると、たくさんのモノを持つことは難しい。
ただ所有しているだけでは、十分に働かせるところまではいかないからだ。
私自身、趣味のモノになるとつい危うい。
買ったばかりなのに、もう次は何を買おうかと考えてしまう。
これは「買う」行為が好きなだけで、手に入れる瞬間の高揚感――
いわば一種の麻薬のようなものだろう。
けれど、本当にモノを生かすとは、
オンリーワンの契りをどれだけ結べるかということではないか。
同じような物をいくつも持つのではなく、
「これ」と決めた一つとしっかり向き合うこと。
手入れをしながら、その良さを知り、働いてくれたことに感謝する。
そうやって関係が深まったモノは、
ただの道具ではなく、自分の暮らしや仕事を支えてくれる大切な存在になる。
大切にするとは、そういう向き合い方のことだと思う。
昔、「ダイヤモンドはダイヤモンドで磨かれる。人も人から磨かれるんだよ」
そんな言葉を教えてもらったことがある。
その時は妙に感動して、「なるほどな」と思った。
あれからもう20年ほど経った。
この半年を振り返ると、まさにその言葉の通りだった気がする。
いろんな人に出会って、いろんなことを言われたり、経験したりして、
そのたびに自分のクセとか、弱さとか、変なプライドとかが浮き彫りになった。
正直、昔の自分はけっこう傲慢だった。
傲慢っていうのは、自分を必要以上に大きく見せたり、
人の意見を聞く余裕がなくなったり、
「まあ当然だろ」みたいな態度をとってしまう、あの感じだ。
今思えば、ただ弱さを隠したかっただけなんだけど。
そんな自分が、ここ半年でちょっとは削られたというか、
角が取れたというか……まあ、磨かれたんだと思う。
先日、その“試験みたいなもの”がやってきた。
別に大げさな話じゃなくて、現実の中に突然やってくる、
逃げられないタイプの出来事だ。
あれが合格だったのか、不合格だったのかは分からない。
もしかしたら10年後になって「あぁ、あれか」と気づくのかもしれない。
ただ一つだけ言えるのは、
どんな時代になっても、人は人によってしか磨かれないということだ。
20年前に聞いた言葉は、やっぱり本当だった。
で、今はこう思う。
その先に何があるのか。
そんなヤボなことは考えるまでもない。
昨日、妻と焼き鳥屋さんへ行った。
ここは、いつもごみ収集でお世話になっているお客様のお店だ。
妻を連れて行くのは初めてで、前から一度案内したいと思っていた。
とはいえ、最近は日曜日も仕事が続いている。
その“罪滅ぼし”というか、“ご機嫌取り”というか、
まあ、そんな気持ちも正直あった。
カウンターに並んで座ると、話題があっちへこっちへ飛ぶ。
家のこと、子どものこと、どうでもいいようなこと。
私はといえば、弱いお酒をいつも油断して飲んでしまい、
案の定けっこう酔っ払ってしまった。
酔いが回った頃、妻がぽつりと言う。
「日曜日くらい、ぐうたらした方がいいよ。」
これが、私の最も苦手とすることだ。
日曜日も仕事を入れてしまう。
“やるべきこと”を探してしまう。
止まったら倒れる自転車のように、つい動き続けてしまう。
でも、妻の言葉は妙に胸に残った。
ぐうたらすることは、ただのサボりじゃなくて、
気持ちに余白をつくることなのかもしれない。
焼き鳥をつまみながら、
「たまには止まるのも悪くないか」と
ほんの少しだけ思えた夜だった。
今日もまた、つい動き回ってしまいそうだけれど、
妻のあの一言を、しばらくお守りにしてみようと思う。
今日のブログは、年中行事のお歳暮配りの話。
先代の頃から続けてきた習慣も、年々その数は少なくなっている。
何より今年は、お歳暮の仕入れ先が二つも無くなった。
店を閉める人の事情も、続けられなくなる背景も、それぞれにあるのだろう。
時代が静かに形を変えていくのを、こういう場面でふと実感する。
正直、「これって本当に意味があるんだろうか」と
胸の奥でつぶやく自分もいる。
効率や合理化だけを考えれば、
真っ先に見直されるべきものなのかもしれない。
それでも先代から受け継いだ“変わらないもの”がある。
年の瀬に「ありがとう」をかたちにするという、不易のこころ。
これは簡単に手放せるものではない。
頂くカレンダーも多く、
やっぱりこういう時間は悪くない、とどこかで思う。
変わっていくもの(易)と
変わらずに持ち続けたいもの(不易)。
そのあいだで揺れながら、
今年もひとつずつお届け中。