先日の土曜日は、久しぶりに妻を連れて、ちょっと夜の街へ。
行き先は、当社でもごみ収集や厨房雑排水の清掃などでお世話になっている 和ビストロMARCO さん。
完全予約制、しかも看板は“表札レベル”という100%隠れ家的なお店です。普通なら気づかずに通り過ぎてしまうほどの控えめさ。そんなお店がずっと気になっていたのです。
ドアを開けると、予約で満席。カウンター越しに見える厨房では、丁寧に料理が仕上がっていきます。
舞茸の天ぷらとヤリイカのシュウマイで始まったコースは、どれも一皿一皿が印象的で、季節を感じる味わい。料理に誘われるように、日本酒が進みました。
最初は 白露垂酒(羽黒)、続いて 杉勇(遊佐)、そして 田酒(青森)。この田酒が、まぁ…旨い。
するすると喉を通り、気づけば何杯飲んだのか、自分でもわからないほど。お店の空気と妻の笑顔と日本酒の魔力。最高の夜でした。
…そして翌朝、しっかり二日酔い。
久しぶりの頭痛と、胃の奥に残るあの独特の感覚。歳を重ねると、“楽しい夜”のあとには、もれなく“静かな朝”がついてくるものです。冷たい水を一口、ふうと深呼吸。反省と幸せが同居する、不思議な時間。
「いや〜、よく飲んだね」と妻に笑われながら、少し重い頭を抱えつつ、そんな夜があるのも悪くないなと思った日曜日の朝なのでした。
今日のブログは、庄内お片づけ部の月に一度のミーティングについて。
先月開催された 無印良品 酒田 の「暮らしの保健室」内イベント「からだとくらしの広場」での整理収納イベントを振り返る反省会を行いました。
今回のイベントも、まさに“降って湧いたような”お話でしたが、そんな中でも部員一人ひとりの機動力とチームワークがしっかり発揮されたなと感じています。急な依頼であっても、「やる」と決まった瞬間から役割分担と準備が自然と始まる。この空気感は、ここまで積み重ねてきたお片づけ部ならではの強みです。
そこから話題は、各自の職場での「書類整理」の話へと発展しました。
やはりどこの現場でも共通しているのが、トップ層の“書類に対する無頓着さ”。「うちは昔からこうだから」「自分の代では捨てない」「移転のときにまとめてやる」という考えなんかが根強く、現場のスタッフの苦労がまったく伝わっていないケースが多いのです。
書類の整理って、誰もやりたがらない仕事なんですよね。
面倒だし、地味だし、達成感も目に見えにくい。しかも、やればやるほど今まで放置されてきた“ツケ”が浮き彫りになる。だからこそ、余計に誰も手をつけたがらない。
でも、誰かがやらなきゃ終わらない仕事でもあります。
結局のところ、整理を先送りすることで、日々の業務の非効率や情報のブラックボックス化が進むのです。
会社の衰退というのは、こういった小さな綻びから始まるのだと思います。
これは書類だけの話ではない、商品だって戦略だって「いつか」「そのうち」「今はその時期じゃない」と先送りにした結果、気づいたときには組織全体が鈍く、動かなくなっている。
トップが無関心、現場は疲弊。それでも現場の誰かが「ちょっとでもやってみる」ことから、会社の空気が変わることもあります。書類整理は、華やかさのない地味な仕事かもしれません。でも、だからこそ「会社を動かす力」を秘めている仕事でもあるのです。
昨日の 鳥海山 の初冠雪に続き、今朝は 月山 も白くお化粧をしていました。いよいよ冬がそこまで来ています。
昨日の社内ミーティングでも、今シーズンの除雪計画やタイヤ交換の話題がちらほらと。毎年のことながら、この話題が出ると「冬が来るな」と実感します。
そんな折、ある廃棄物の一元管理会社様から当社への会社確認がありました。こういったコンサル系の会社は世の中に数多くありますが、実際に現場まで足を運んでくださる企業はそう多くありません。その中でも、この会社の社長は毎年東京から自ら足を運んでくださる方。ありがたい限りです。
本来であれば当社へのヒアリングで終わるところですが、全国各地の処理業者を見て回っている方でもあるので、むしろこちらから質問攻め。業界の先進的な取り組みやこれからの方向性について、現場目線のリアルなお話を聞かせていただきました。規模は違えど、同じように会社を預かる立場として感じるものがあります。
視点はやはり「虫の眼・鳥の眼・魚の眼」。目の前の現実を感じながらも、10年後、20年後の未来と時流を見据える。そんな視点を共有しながら、互いの将来像を語り合う時間となりました。
歴史を振り返れば、超優秀と評された 徳川慶喜 も、将軍在任中は京都に留まり、江戸には一度も足を踏み入れなかったといいます。どれほど先を見通す力があっても、現場との接点がなければ、組織は動かない。
やはり「現場を歩く」ということは、いつの時代も変わらない大事なことなのです。
冬の足音とともに、業界の未来を静かに、しかし力強く見つめる一日でした。
急に空気が冷たくなり、日中も羽織ものが欲しくなる季節になりました。
ついこの前まで Tシャツ一枚や薄手のニットで過ごしていたのに、季節の歩みは早いものです。
この時期、庄内では「カメムシの量で雪の多さを占う」という、ちょっとした年中行事があります。
ところが今年は、その話題があまり聞こえてきません。
どうやら発生数が極端に少なく、いたとしても小さな個体で、すぐ弱ってしまうのだとか。
ということは、今シーズンの雪は少ないのか。それとも単なる迷信なのか——今年ははっきりしそうです。
そしてもうひとつ、秋の訪れを実感するのが、久しぶりに革ジャンに袖を通すとき。
今朝、ファスナーを引き上げようとしたら、胸のあたりでピタリと止まりました。
どうやら、パーソナルジムで鍛えた胸筋が知らぬ間に成長していたようです。
トレーナーに聞くと、この「革ジャンと筋肉問題」は、トレーニー界隈ではしばしば引き起こされる話題なのだとか。
革ジャンを取るか、筋肉を取るか——悩ましい秋です。
今日のブログは、中々初段に上がれない習字の話。
頭で考えて書こうとすると、どうしても型にはめようとしてしまう。
筆に力が入り、線がこわばる。
けれど、本当に「書く」ということは、
水が流れるように、蔦が伸びるように、鳥が飛び立つように
ただ自然に筆先に身をゆだねる世界にあるのだろう。
でも、そこにたどり着くには「数」を書くしかない。
気づいては、また分からなくなり、そしてまた気づく。
そんな螺旋階段をぐるぐると登っていくような道のりだ。
「どうやったら自然に書けるのか」と考えている時点で、
もう頭で書いてしまっている。
子どもが上達するのは、考えないからだと聞いた。
一方、大人の習い事が難しいのは、
経験やプライドといった“邪魔者”が、自分の中に住みついているからだ。
自然に書くということは、
技術を覚えることだけではなく、
その“邪魔者”すなわち我と向き合い、解放されて行くことなのだ。