末娘がコンビニでアルバイトを始めた。
高校生になって少し積極的になったように感じる。学校とは違う世界で、多くの人と接しながら働いている姿を見ると、親としてもうれしい。
先日、仕事の様子を聞いてみた。
「一番売れる商品は何?」
「タバコ。」
これはなんとなく予想がついた。
「じゃあ、一番驚いたことは?」
「葉巻をカットする工具だけ買って帰った人がいた。」
思わず笑ってしまった。世の中にはいろいろな人がいるものだ。
そんな話を聞きながら、ふと思い出した。
私が18歳の頃、この町にはまだコンビニがなかった。都会へ行った時、住宅街の中にまでコンビニがあり、夜でも明るく営業していることに驚いた記憶がある。
そしてさらに思い出すのは、子どもの頃に通った近所のタバコ屋兼駄菓子屋だ。
100円玉を握りしめて店へ向かう。10円のうまい棒、20円のガム、30円のチョコ。限られたお小遣いの中で、どれを買おうか真剣に悩んだ。
今思えば、あの店に通っていた理由はお菓子だけではなかった。
そこにはいつもおばちゃんがいた。
「学校終わったのか」
「今日は何買うんだ」
そんな何気ない会話を交わしながら、子どもたちは店に集まった。
だから私は、あの店の商品よりもおばちゃんの顔を覚えている。
一方で、娘の働くコンビニでは勤務中のマスク着用がルールだという。知っている人が来店しても気付かないことがほとんどらしい。
実際、私もコンビニ店員さんの顔を思い出せない。まるで街ですれ違う人たちのようだ。
便利で効率的な社会になった。欲しいものはいつでも手に入り、レジで長話をする必要もない。
けれど、駄菓子屋には商品だけではない何かがあったように思う。商品を買いに行っていたはずなのに、人に会いに行っていた部分もあったのかもしれない。
もちろん、どちらが良い悪いではない。時代が変わったのだ。
今となっては何を買ったかはほとんど覚えていない。それでも、おばちゃんの笑顔だけはなぜか今でもはっきり思い出せる。
もう10年もしたら、娘もコンビニでアルバイトをした頃の話を昔話として語るのだろう。
「昔はコンビニのレジにも人がいたんだよ」
そんな時代が来るのかもしれない。
今日は、山形県倫理法人会女性委員会主催のお片づけ講座で講師を務めた。
久しぶりのお片づけ講座である。
持ち時間は60分。限られた時間の中で、どうすれば参加者の皆さんに「片づけられる自分」で帰っていただけるか。そのことを考えながらお話しさせていただいた。
お片づけというと、「何を捨てるか」に意識が向きがちである。しかし、本当に大切なのは「何を残すか」、そして「どう活かすか」ではないだろうか。
物にはそれぞれ役割がある。
ハサミは切るために、本は読まれるために、服は着られるために存在している。
それなのに、引き出しの奥や押し入れの中で眠ったままになっている物も少なくない。
物が悪いわけではない。その物を活かしきれていない自分との関係に課題があるのである。
人にも適材適所があるように、物にも居場所がある。
必要な場所に置かれ、必要な時に使われることで、物は初めてその価値を発揮する。
だから、お片づけとは単なる整理整頓ではない。
物と向き合い、物との関係を見直し、物を活かせる自分になるための取り組みなのである。
そして不思議なことに、物を活かせるようになると、時間の使い方も、人との関わり方も少しずつ変わってくる。
久しぶりの講座だったが、改めてお片づけの原点を思い出させてもらった。
物を活かせる自分になる。
それは、よりよく生きるための第一歩なのだ。
私は自分のことを、運のいい方だと思っている。
もちろん、嫌なことや困ったことが起きないわけではない。
むしろ人生を振り返れば、予想もしない出来事や思い通りにならないことの連続だ。
先日もそんな出来事があった。
8月に新しい特殊車両が納車される予定なのだが、入れ替え予定の現役車両が故障してしまったのである。エンジンの載せ替えが必要とのことで、修理費は200〜300万円。車両は平成25年式で、もともと新車が来たら売却する予定だった。
「あと少しだったのに・・・」
そんな気持ちにならないと言えば嘘になる。
しかし、こんな時に思うのである。
本当に運が悪かったのだろうか、と。
もし新車の発注をしていなかったらどうだっただろう。もしあと数年この車に頑張ってもらうつもりだったらどうだっただろう。
あるいは、お客様のもとで作業中に止まっていたら。
そう考えると、このタイミングで故障したことにも何か意味があるような気がしてくる。
運のいい人というのは、トラブルが起きない人ではない。
起きた出来事をどう受け止めるか。そして、その出来事の中にどんな意味を見出すか。
そこに違いがあるのかもしれない。
長年頑張ってくれた車は、最後の最後で大きな宿題を残してくれた。
しかし、それも何か意味があってのことだろう。
運がいいのか、強運なのかは分からない。
ただ、これまでも振り返れば「あの時は困ったな」と思った出来事が、後になってみると良い方向へ導いてくれたことが何度もあった。
だから今回もきっと大丈夫。
さて、この出来事に私の強運がどう発揮されるのか。
少し楽しみにしながら、見守りたいと思う。
父がさくらんぼを買ってきた。
山形の6月と言えば、やはりさくらんぼだ。
たくさん食べる果物ではないかもしれないが、赤く艶やかな実は見ているだけでも楽しい。まるで季節そのものが食卓に並んだような気分になる。
この時期になると、あちこちで「さくらんぼ狩り」の看板を目にする。
私も子どもたちが小さい頃、一緒に出かけたことがある。様々な品種を食べ比べながら歩くのはなかなか楽しく、今でも良い思い出だ。
先日テレビを見ていたら、そのさくらんぼ狩りを夜に開催している農園が紹介されていた。
これは面白いと思った。
さくらんぼ狩りというと、家族連れが昼間に楽しむものというイメージがある。しかし、その農園では夜にライトアップを行い、星空を眺めながらさくらんぼ狩りを楽しむという。
同じさくらんぼ。
同じ農園。
なのに、昼を夜に変えただけで、まったく違う魅力が生まれている。
家族向けだったものが、若いカップルや大人向けの体験にもなる。
これは経営の世界でいう「市場開拓」という考え方に近い。
新しい商品を作るのではなく、今ある商品を別のお客様に届ける。
私たちはつい、「新しいことをやるには新しい商品が必要だ」と考えがちだ。しかし実際には、見せ方や届ける相手を変えるだけで、新しい価値が生まれることも少なくない。
そう考えると、身の回りにはまだまだ可能性が眠っているように思う。
山形の6月の風物詩であるさくらんぼ。
そのさくらんぼから、商売のヒントをひとついただいた気がした。
今朝、先輩経営者の話を伺った。
社員同士の対立や、一部社員の暴走に悩まされたことがあったそうだ。
その時、ある人から言われた。
「社長としての覚悟が足りない」
なかなか耳の痛い言葉である。
さらに印象的だったのは、その後の話だった。
振り返ると、そうした問題を起こす社員は一人ではなかったという。
時代ごとに姿を変えながら、何度も現れた。
そして先輩はある時、こんなことを思ったそうだ。
「あの人たちは、私に何かを教えるために現れていたのではないか」
言うべきことを言うこと。
決めるべきことを決めること。
社長としての覚悟を持つこと。
そんなことを教えに来てくれていたのかもしれない、と。
実は私も、その話を聞いて妙に納得してしまった。
会社だけではない。
人生でも、なぜか同じような問題が繰り返し現れることがある。
相手は違うのに、なぜか似たような出来事が起きる。
もしかすると、それはまだ宿題が終わっていないということなのかもしれない。
もちろん、問題はない方がいい。
けれど問題を運んでくる人もまた、自分に何かを気づかせる役割を持っているのだろう。
そう考えると、少しだけ見え方が変わる。
感謝を忘れず、言うべきことは言う。
そして決めるべきことは決める。
経営とは、その繰り返しなのかもしれない。